大納言の倉

戦国時代のことを素人のおじさんがなんとなくで書き記します。

戦国大名伊勢北畠氏の基礎情報

戦国大名伊勢北畠氏の基礎的な情報をまとめておく

 

注:専門家でもなんでもない素人が頑張って書いただけのものですので、あくまで参考程度にお読みください。

 

 

伊勢国司北畠氏の勢力範囲(推測含む)

◎伊勢北畠氏の誕生

北畠氏は村上源氏久我氏の分家である中院家からさらに別れた家で、京都の北畠に屋敷を構えたことで北畠を名乗った。

南北朝時代になると北畠親房南朝重臣として活動。北畠氏は伊勢国となり南勢(南伊勢)に勢力を根付かせ、南北朝時代が終わると今度は室町幕府に従い北畠大納言として南勢五郡の支配を引き続き認められた。

公家だが京都には戻らず在国して南勢の支配を継続。反乱を二度起こして当主北畠満雅が討死して知行を全て失うこともあったが、その後なんとかいろいろあって復活している。

南勢五郡のうち元々伊勢神宮の支配していた神三郡を没収され神宮へと還付されるものの、神宮の支配後退に伴い15世紀末までに勢力を浸透させ再び支配下に置いた。
なお勝手に支配しているので幕府から「なんでお前が支配しとるんや?」と詰問されたりしている。あと外宮燃えたのも怒られた。北畠側は「俺は悪くない。やったのは宇治(内宮)。俺は加勢しただけ(責任転嫁)」と弁明した。

北畠氏は村上源氏

 

伊勢国司と呼ばれ続ける

南朝から伊勢国司に任じられたことによって、伊勢北畠氏の本家は戦国時代まで伊勢国司(国司家)と呼ばれ続けた。
もちろん国司としての権限で支配を行っているわけではなく、あくまで通称、格式として用いられている。朝廷や幕府が正式に国司として任じているわけではないし、特に伊勢守という訳でもない。

京都には北畠一族の木造氏が在京していて、多くの人にとって「北畠=木造」だった(公家の日記等に出てくる北畠はだいたい木造氏のことを指していることが多い)。
そういう事情から両者を区別するために伊勢に在国している本家は「伊勢国司」と呼ばれていたのではないかと考えられている。

ただ国司という称号に実は意味があった可能性や、本人たちは意識して領国支配を行っていたのではないかという説もある。

(『室町幕府と地域権力』大薮海)

(室町時代の「知行主」-「伊勢国司」北畠氏を例として-)

 

京都の人たちにとっては木造氏が北畠だった



◎本所・大御所・中ノ御所

伊勢国司家の当主は「本所(御本所様)」と呼ばれ、隠居すると「大御所」と呼ばれた。大御所の北畠具教がいる段階で隠居した北畠具房のみ「中ノ御所」と呼ばれたとされる。
一族らもそれぞれ○○御所と呼ばれている。

 

◎官位

羽林家ということで最大で大納言まで昇進可能だった。戦国時代になっても歴代の当主や一族は高い官位に昇進している。
これは同じ村上源氏である久我氏との関係が昇進を可能にしていたのではないかとみられている。
(『戦国貴族の生き残り戦略』岡野友彦)


戦国時代の当主たちの最終官位はこんな感じ
北畠教具→従二位権大納言
北畠政郷→従四位上右近衛権中将
北畠材親→正三位大納言
北畠晴具→従三位中納言
北畠具教→正三位中納言
北畠具房→左近衛中将


政郷は若くして出家したこと、具房は早くに隠居して死去したことであまり昇進しなかったと考えられている。
他にも有力一族が


木造俊茂→従三位参議左中将
大河内頼房→正三位中納言
坂内具祐→従四位下参議播磨権守
田丸具忠→従四位下左中将


と高い官位についていて、こうした有力一族以外にも多く一族が少将や侍従になっている。
…しかし在京してしっかりと朝廷に仕えているわけでもないのに昇進だけはしていくので、在京する公家たちからは嫌われていたようだ。

 

半国守護ではなかった北畠氏

室町幕府体制下の伊勢北畠氏は南伊勢五郡の半国守護(分郡守護)であったと考えられてきた。
しかし近年では「どうも違うのでは?」となってきている。
北畠氏は自分の知行地である南勢五郡へ様々な権限を持っていた。
そしてそれらの地域に伊勢守護が命令を出した形跡はなく支配に干渉していない。北畠氏がまるで守護かのように統治していた。
しかし幕府からは「伊勢守護」「北畠大納言」は分けて扱われており、半国守護(分郡守護)のようなものが設置されたことも確認されていない
そのため現在では北畠氏は半国守護とかではなく、ただ守護の支配が及ばない一定地域を知行していた「知行主」と位置付けられている(応仁の乱の時に伊勢守護職に補任されている)。
この分郡守護の否定は北畠氏に限った話ではなく、全国的にその存在の見直しが進んでいるいようだ。
(『室町幕府と地域権力』大薮海)

(室町時代の「知行主」-「伊勢国司」北畠氏を例として-)

 

◎伊勢守護

応仁の乱の最中、北畠氏は伊勢守護職に補任されている(その後、罷免されたり再任したりした)。
伊勢守護の支配範囲は伊勢全体には及ばず、北伊勢(北勢)の四郡に限られる
これは守護とは別に「知行主」として関一党(鈴鹿郡)、伊勢長野氏(庵芸郡・河曲郡一部)、伊勢北畠氏(南勢五郡)らが存在していたことが理由である。(というか員弁郡朝明郡にも北方一揆、十ヵ所人数という奉公衆の集団がいるので支配地域はさらに小さくなる)
では守護となった北畠氏が北勢五郡を支配できたかというと、そういうわけでもない。一色氏、世安氏、長野氏らと北勢を巡って争っている。(『列島の戦国史2 応仁・文明の乱と明応の政変』大薮海)
応仁の乱が終わってもこの戦いは終結せず、どの時期に落ち着いたのかよくわからない。


その後、永正五年(1508年)に北畠材親が足利義稙によって再び伊勢守護に任じられ、北勢に進出。同じように北勢に勢力を伸ばしていた長野尹藤と衝突したとされ、永正十二年(1515年)には栗真荘で愛洲氏と長野氏が交戦したらしい。(「伊勢北畠氏家督の消長」吉井功兒)
具体的な時期は不明だが、材親の時代には子の具盛を神戸氏の養子に入れたり、妹を長野氏(尹藤か稙藤)に嫁がせていたとされる。

 

◎領国

戦国時代の北畠氏領国はこれらの地域になる。
南勢五郡(一志、飯高、飯野、多気、度会)
大和国宇陀郡
志摩国
熊野地域
伊賀国


なお軍記物なんかだとこんな感じになっている…
・志摩一国二郡の諸侍を従えいていた。
大和国は久世満西が常に国司を防ぎ戦っていた
紀州熊野山尾鷲新宮等の侍も国司方に属す。
伊賀国名張、阿賀二郡の諸侍は国司に従う。
これは『北畠物語』からですが、だいたい同じ感じで書かれていたはず。
どこまで事実かわからない部分も多い。

 

・南勢五郡
本国と呼べる地域は南勢五郡。
まぁ幕府から認めてられているのは一志・飯高の二郡支配のみで、神三郡は本来、伊勢神宮のものなんですけどね。
十五世紀、神宮の支配後退に伴い北畠氏が神三郡を浸食し、支配下に置いた。
ただ南勢五郡の中にも山田三方や、小倭郷一揆のように自立性が高い地域もあった。

 

志摩国
天正十年頃に国境が変更されるまで、志摩国の範囲は現在の南伊勢町から尾鷲市付近までを含んでいた。伊勢側の国境も鳥羽城の北を流れる妙慶川とされ、近世以降の志摩国の範囲とかなり違う
ただ奈井瀬や阿曽浦(現在の南伊勢町近辺)は中世でも伊勢と認識されてる感があったりする。この地域は五ヶ所愛洲氏が独自に領地を治めていて、彼らは北畠氏に従っていた。
古和浦には北畠氏が行政文書を発給しているので北畠氏の領国。
あとは『勢州軍記』なんかの軍記物で長島、尾鷲あたりまでは北畠氏領であったように書かれている。
ということは、おおよそ五ヶ所(南伊勢町)から古和、あとは長島(紀北町)、尾鷲近辺までは北畠氏が勢力下に置いていたことになる。


一方で近世以降の志摩国地域(現在の鳥羽市志摩市)には九鬼氏らをはじめとする「志摩十三地頭」とか「嶋七党」とかいう土豪(水軍)たちが割拠していたが、北畠氏と直接やりとりした史料が少なく、はっきりとした関係性は不明。

天文二十四年(1555)七月には駿河今川の軍勢が「志摩とらむと」出兵してきたが、これに対応するため北畠具教が出陣している。この時には志摩は自分たちの領国という意識があったらしい(「年代和歌抄」「佐藤信安置文」)。
だが、永禄六年(1563)とされる教兼奉行人奉書には「花岡・和具・越賀、其外敵地之面々…」とある。志摩国への出兵に関するものだが、少なくともこの時点では一部の勢力は従っていなかったか、もしくは一時的に敵対していたらしい。
『勢州軍記』では九鬼右馬允が掟に背いたため他の志摩七党が一味同心して九鬼氏を攻めて没落させたとしてる。『寛政譜』では九鬼氏との戦いで七党が援兵を多気国司に借りたという話になっている。永禄六年の志摩出兵はこの時の戦いのことではないかともされる(『九鬼嘉隆―戦国最強の水軍大将―』鳥羽市教育委員会)。

浜島地誌では「古老の伝言ヲ記ス」として「伊勢国北畠ニ隷属ス」とあるようだが(『浜島町史』)、伝言なのでなんの確証もない。一応、昔の浜島あたりではそう伝わっていたらしい(そもそも江戸時代初期の軍記物で志摩国を従わせていたと書いてあるし)。
信雄の時代には九鬼嘉隆は志摩衆を率いて北畠氏に従っており「功を三助殿様(信雄)に披露しておく」と越賀氏(志摩の武士)に伝えている。『勢州軍記』でも信雄に仕えたとなっている。


・宇陀郡
宇陀郡の実効支配南北朝時代から行われており、沢氏、秋山氏、芳野氏ら宇陀国人を傘下に収めている。彼らは宇陀郡内で独自に権益を持つ「国衆」でありながら、北畠氏の重臣としても活動した。
この宇陀郡支配に絡んで興福寺門跡東門院へ北畠氏当主子弟が入室している。このあたりは大薮海氏の研究があるので詳しくはそちらで。
(『室町幕府と地域権力』大薮海)

(興福寺東門院の相承-文明四年北畠氏子弟入室の前提)

(北畠氏の宇陀郡支配と興福寺東門院)

あとは宇陀郡一揆についても論文がある。こちらはネットで読むことが可能なので是非。
(「戦国大名北畠氏の権力構造:特に大和宇陀郡内一揆との関係から」西山克)

 

・熊野
熊野地域については史料不足のためよくわからないが、『勢州軍記』では「熊野武士は国司家の幕下にあった」としている。三鬼城あたりが境目だったようなので現在の尾鷲市近辺までは北畠氏の勢力圏だったのかもしれないが、はっきりとしない。

 

伊賀国
『勢州軍記』によると伊賀国には六十六人の侍がいて、彼らが一味同心して諸城を守っていたとされる(伊賀惣国一揆)。
北畠具教の粛清後は具教派残党が伊賀に潜伏していたとされ、また具房の時代には伊賀北村氏が伊勢国内に領地を与えられている
(『三重県史資料編近世1』98p『伊賀市史 第四巻資料編』747p)。
伊賀衆の中に北畠氏の被官がいたことは信雄家臣の小川長保(新九郎)も『小川新九郎覚書(伊賀の国にての巻)』に記している。「伊賀の大名三十余人」「千石二千石」ほどの知行を伊勢国内に与えられていたようだ。彼らは知行を与えられていることに「忝けない」と感じ、国司の所へも度々御礼に行っていた。
全域を支配した訳ではないだろうが、伊賀の領主たちにそこそこ強い影響力を持っていたのは確かだと思う。

伊勢国の主な城。伊勢北畠氏は南伊勢を領国としていた。

 

◎本拠地、多気(多芸)

伊勢北畠氏累代の本拠である。

本拠は!大河内城では!ない!

元々は平野部にある玉丸城(田丸城)を拠点としていたが、興国三年(1342)に失陥したことで多気(たげ)へと本拠を移転した。
行ったことがある人ならわかると思うがかなり山奥にある(三重県津市美杉町上多気)。
山奥ではあるが伊勢平野部、伊賀、大和を結ぶ地点に位置する要衝であり、平野部を回復した後にも北畠氏は多気を本拠とし続けている
この土地の名前から北畠氏権力は多気様」多気殿様」「多気御所とも呼ばれ、多気「多芸」と書かれることもある。
……伊勢には多気(たき)郡という郡があるので紛らわしいが、本拠地の多気があるのは一志郡多気(たげ)。全然違う場所なので注意。
谷の中に国司館や家臣の屋敷が立ち並び城下町として繁栄した。
国司館の裏山には霧山城という詰城も築かれている。
多気信長の野望シリーズだと霧山御所として登場するのでそっちの名前で認知している人もいるかもしれない(でも大河内城が本拠となっている時が多いか…)。


天正三年(1575年)に本拠地が田丸城へと移転し、首都としての機能を失った。多気が本拠になる前は田丸城が本拠だったので、233年ぶりに本拠が戻ったことになる。
ほとんどの家臣が田丸城へ移ったのか、翌年の夏には北畠具教も多気に飽きて小石(大石)に移っている。


……なんで具教だけ多気にいたのかよくわからないけど。
連れてって貰えなかったんだろうか。意地を張って残ったのかもしれん。どっちにせよ具教だけ田丸城へは移っていない。
天正四年の具教粛清後に滝川一益によって攻め落とされた。
現在では国司館の跡に北畠神社が建ち、当時から残る庭園霧山城跡多気北畠氏城館跡として国指定史跡となっている。続日本100名城の一つ。

 

北畠氏館跡庭園。細川高国の作庭と伝わる。

想像で描いたので特に正確なものではないです。

 

◎伊勢北畠一族

・木造氏(こつくり)
一族の頭……とされるが自立性が高く、十五世紀までは在京していた。十五世紀末に木造政宗・師茂(材親弟)が内乱を引き起こすが敗北(国司兄弟合戦(1497年-1504年))。木造城を失って戸木城へと退き、家督は木造俊茂が継いだ。その後、どういう理由かわからないが木造俊茂の子、具康が粛清されて北畠晴具の次男の具政が養子として入った。
弘治二年(1556年)までは沢氏が木造城代として城領を管理したが、木造城領内には木造氏の領地が存在していて、これは城代の管理するものとは別に設定されている。信長侵攻時(1569年)にはいつのまにか木造氏が木造城へと復帰しており、大河内合戦直前に織田方へと寝返った。

 

・大河内氏(おかわち)、坂内氏(さかない)、田丸氏(たまる)
一族三大将と呼ばれる有力一族。
大河内氏、坂内氏は代々国司家の子弟が養子入りするか娘婿となっており、国司家当主との血縁が非常に近い。この二家に関しては単なる分家では済まない扱いとなっている。
田丸氏は天文年間頃に新たに誕生したとされ、晴具の三男田丸具忠が初見となっている。『勢州軍記』では田丸顕晴という人物がいたとしているが同時代史料には名前が見えず正体不明。

 

・他の一族
他にも岩内氏(ようち)、藤方氏(ふじかた)、大坂氏(おっさか)、河方氏(かわかた)、牧氏(まき)らが北畠一族として官位を得ていたり、活動している史料がある。
また史料では姿が見えないが軍記物では波瀬氏(はぜ)などの一族が存在する。
このうち岩内、藤方、波瀬は『勢州軍記』で一族大将であったとされていて、軍勢を率いる立場にあったらしい。
方穂、林、森本らも一族とされるが、遠い血縁なのか家臣として扱われている。

伊勢北畠氏一族。系図によって親子兄弟が変化していてよくわからない部分も多い。



◎家臣団

・四管領
鳥屋尾満栄、水谷刑部少輔、沢房満、秋山右近将監
この四人が『勢州軍記』『北畠家臣帳』で四管領として名前が挙がっている。
当たり前だけど同時代史料で四管領と呼ばれたことはない。


水谷だけあまり史料上名前が出てこず詳細不明。立野城主だったと伝わるらしい。
一応、天正十一年の奉書に水谷播磨権守敬頼、天正十二年に蒲生氏郷の知行割目録に「水谷 五〇〇石」が見える。本人か子息、あるいは一族なのだろうか?


鳥屋尾満栄国司家の侍を率いる大将だったとされる。
『勢州軍記』で「文武に得て知略に深く、万私を捨て人を立てる無双の執事である」と絶賛されている。
天正元年の大湊への出船要請では織田、北畠、大湊の間に立たされていて「中間管理職かわいそう…」というイメージが強い。


秋山は宇陀郡の「国衆」だが北畠氏の重臣としても活動した。

秋山は永禄三年(1560年)の三好侵攻で宇陀郡を失陥した後は大和側の勢力に付いてったとされるが、北畠側の史料にも登場するのでいまいちポジションがわからない。
沢房満は幼少時に父を亡くしながら元服後は若くして武将としても活躍。在番の命令を無視して帰ったり、秋山の所領を横領したりしている。

問題児かこいつ……。

 

・行政文書に出てくる奉行っぽい人たち
安保、朴木、山崎、稲生、垂水、江見、真柄、方穂、星合、林
このあたりは奉行として行政実務にあたっていたのか名前がそこそこ同時代史料に登場してくる。
安保実寄
稲生氏俊
朴木隼人佐
山崎勝通、山崎国通
垂水教兼、垂水藤兼
江見駿河
真柄修理亮
方穂久長
星合直藤
林雅顕(備後守)


・史料に名字や名前が出てくるので実在してる重臣
家城、大多和(三浦)、大宮、榊原、日置、長野、今川、山室、五ヶ所、一之瀬、野呂
家城式部大輔
大多和左馬允
大宮左京亮
榊原弥四郎
日置大膳亮
長野左京亮
今川左馬允
五ヶ所教忠
一之瀬忠弘
山室甚八
野呂(越前守)(文明年間に野呂筑前守がいる)


・軍記物等には出てくる家臣(忘れてるだけかもしれないが…)
奥山常陸
芝山出羽守
本田左京亮
天花寺小次郎
加藤民部少輔
服部民部少輔
大内山但馬守(大内山の領主?史料に出てきたっけ…)


活動時期はバラバラ。とりあえず思い出せる範囲で書いた。
他にも重臣とまではいかないが、多数の武功をあげた佐藤信安なんかもいる。
五ヶ所氏については史料とかがまとめられた論文がある。
(「伊勢国国人愛洲氏について」稲本紀昭)


天正四年の具教粛清後に反信雄派となり反乱を起こした家臣もいれば、信雄にそのまま使えた家臣もいる。

 

国司奉行人(公方奉行人)

北畠氏奉行人奉書を発給する奉行人。
実務面では活動せず、専ら右筆的な立場であったとされる。
代々国司家当主の一字を偏諱としていて下に「兼」の字を通字として用いているのだが、名字が書かれることがないせいで、どの家の人物なのかわからないことが多い。花押についても当主から下賜されていたのではないかとされている。


彼らが何者なのかについては

在地領主山室氏説
 (「戦国大名北畠氏の権力構造:特に大和宇陀郡内一揆との関係から」西山克)
一族の誰か説
 (「伊勢国司北畠氏の発給文書について」中野達平) 
一族でも在地領主でもない説
 (「伊勢国司北畠氏の花押」小林秀)


……と説が多数ある。


現状わかる範囲だと

雅兼→北畠雅兼。一族。
勝兼→山室勝兼と花押が一致しているので山室勝兼と見られている。
親兼→河方親兼という一族がいるが、名前が一致しているだけ…?
方兼→親兼と同一人物?
国兼→?
教兼→「佐藤家文書」では垂水宮内大輔教兼書となっているので垂水?他にも藤兼という人物もいて兼を通字にしていた家の可能性がある。
房兼→?


こんな感じだろうか。

今のところは書籍や論文を読む感じだと、奉書を出す奉行人については山室氏として扱われていることが多い。

 

 

◎まとめ
伊勢国司は通称。木造氏が北畠と呼ばれていたため区別するため呼ばれた。
・当主は本所と呼ばれ、隠居すると大御所と呼ばれる。
・官位は大納言まで昇進可能。
伊勢守護職に補任されている。ただ罷免されたり再任したりした。材親が任じられたのが最後。
・領国は南伊勢五郡大和国宇陀郡志摩国、熊野地域一部、伊賀国一部はよくわからん。
・本拠地は多気。多芸とも書く。もちろん芸が多いという意味ではない。
・木造氏、大河内氏、坂内氏、田丸氏が有力一族。ほぼ当主の子弟が養子に入る。
国司奉行人(公方奉行人)が奉書を出す専門の家臣がいた。どの家の人かはよくわからん。

 

 

 

参考文献
三重県史 通史編中世』
三重県史 資料編中世1~3』
三重県史資料編近世1』
伊賀市史 第四巻資料編古代中世』
『沢氏古文書 第一』
『勢州軍記』(続群書類従 第21輯ノ上 合戦部)
『伊勢北畠氏と中世都市・多気美杉村教育委員会 
『北畠氏の研究(復刊)』大西源一
室町幕府と地域権力』大薮海
『戦国貴族の生き残り戦略』岡野友彦
『列島の戦国史2 応仁・文明の乱と明応の政変』大薮海
天正伊賀の乱和田裕弘中公新書 2021年
伊勢国司北畠氏の研究』藤田達生
『新版県史 三重県の歴史』勝山清次・飯田良一・上野秀治・西川洋・稲本紀昭・駒田利治編
九鬼嘉隆―戦国最強の水軍大将―』鳥羽市教育委員会
戦国大名北畠氏の権力構造:特に大和宇陀郡内一揆との関係から」西山克
伊勢国司北畠氏の発給文書について」中野達平
伊勢国司北畠氏の花押」小林秀
「戦国時代の土豪と在地寺院・「徳政」:伊勢国一志郡小倭郷を事例に」水林純
伊勢国司北畠氏の神三郡支配に関する一試論」小林秀
「伊勢北畠氏家督の消長」吉井功兒


戦国大名伊勢北畠氏の文献リスト
https://dainagonnokura.hatenablog.jp/entry/2023/05/01/221137