大納言の倉

戦国時代のことを素人のおじさんがなんとなくで書き記します。

戦国大名伊勢北畠氏の歴史 その4 1577~1584

戦国大名伊勢北畠氏の歴史 その4 1577~1584

具教粛清後(1577)からの信雄時代です。

これが最終回。

 

●2月15日 いくつか内容を追加しました。(追加って書いてあります)

 

その1、その2、その3はこちら

dainagonnokura.hatenablog.jp

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1577 雑賀攻め

天正五年(1577)二月、織田軍による紀伊国雑賀攻めが行われ、北畠信雄もこれに参陣しました。信雄は織田氏当主で兄の織田信忠の麾下へ入っています。
三月には雑賀衆鈴木孫一も城を包囲されてやがて降伏。三月後半には信忠勢も帰陣しているので信雄も南勢に帰国したとみられています。

 

1577 北畠具親の反乱 

天正五年(1577)、北畠具親(東門院殿)が打倒信雄の兵を挙げました。
北畠具親は具教の弟で、出家して孝憲と名乗り興福寺東門院にいたのですが、伊勢から逃れた芝山小次郎たちから国司家一族の粛清を聞いて国司家再興の挙兵を決意。還俗した孝憲は北畠具親(朝親・政親とも)と名乗って伊賀国へ移りました。具親ら反信雄派勢力はどうも伊賀国を拠点にして連携を図っていたようで、これが後々の信雄の伊賀出兵へと繋がったともされています。
具親は粛清から逃れられた坂内亀寿(北畠一族)とも協力します。坂内亀寿については六角承禎も支援を約束していて、承禎は「大本所(六角義治)や将軍義昭に話を通しておく」と伝え、さらに「もし北畠家督を継ぐ者がおらんなら亀寿が継いだらええんちゃう?」と勧めています。具親には子がいなかったので年齢的には幼少の亀寿が適任者だったのでしょう。
天正五年(1577)三月六日には亀寿宛に足利義昭の家臣、真木島昭光から書状が届いています。具親と義昭はともに元は興福寺の僧ということで面識があったのではないかとされています。

 

1577 具親、川俣で挙兵する

兵を挙げた具親、亀寿ら国司家再興軍は伊勢国とへ進出。粟谷・唐櫃・菅野・谷・三田・三竹・小倭郷七人衆らが具親に味方し、さらに鳥屋尾氏、家城氏といった元重臣に峯、森、乙栗栖などが続々とこの挙兵に参じました。伊勢へと入った具親は川俣(香肌峡)の森城へと迎え入れられています。
信雄は滝川雄利、柘植保重、長野左京亮を小倭郷に派遣。さらに森清十郎は三瀬、日置大膳亮は川俣へと向かい具親方を攻撃しました。天正五年(1577)春には具親勢が伊勢国中へと進出しようとしたため、信雄は滝川雄利らも川俣へと向かわせています。戦いは信雄方が優勢に進めたようで、具親に味方した各地の諸家は信雄勢の前に次々と降伏。具親も森城を落とされ、将軍足利義昭を頼るべく毛利氏領国へと落ち延びていきました。
具親に味方した北畠家臣の多くが討死、処刑されたようです。『北畠御所討死法名』では大河内城籠城戦でも活躍した家城主水佑も川俣にて討死となっていて鳥屋尾氏の富永城も落城しました(『勢州軍記』)。
天正五年(1577)八月二十七日に北畠具親が熊野へ立願を行っています。『勢州軍記』の挙兵時期(春)が正しければ立願は挙兵の前ではなく鎮圧後ということになります。さすがに挙兵前が正しいように思いますが……どうなんでしょうね。
九月二日には坂内亀寿が具親と申し合わせて伊賀に逗留中の旨を熊野実宝院へ伝えているので、この時点ではまだ具親も亀寿も伊賀に潜伏していたようです。武田勝頼から激励の書状も坂内亀寿宛に届いています(九月十二日付)。

挙兵したものの敗退してしまった具親。結構な数の味方が集まっているので、もしも具教が殺されず反乱を起こしていたらと考えると……

■ 1578 田丸御局

天正六年(1578)八月、徳川家康が田丸御局宛に「田丸船一艘の諸役を免除するね!」と朱印状を出しました。『愛知県史 資料編織豊1』ではこの田丸御局が北畠具教娘で信雄正妻の千代御前ではないかとされています。ちょうど信雄が播磨方面へ出兵していたので、もしかすると代理で対応していたのかもしれません。
前年に北畠具親の反乱が起こったにも関わらず北畠一族である妻に留守を任せているあたり、信雄からは信頼されていたのではないでしょうか?
彼女は家付娘として信雄を婿に迎えて伊勢国司家当主の正妻となった、信雄の北畠家督という地位を担保する存在でした。信雄も蔑ろには扱わなかったでしょう。たぶん。
(2024年2月15日追加)

 

1578 播磨国摂津国を転戦

天正六年(1578)二月、播磨国三木城の別所長治が謀叛を起こしました。信長は信忠の軍勢を摂津、播磨方面へと派遣。北畠氏もこれに従って出陣しています。
なお信雄はこの時期には名前を「信意」から「信直」に改めていたのではないかとみられています(面倒臭いので以降も信雄で書いてきます)。
信忠勢は四月四日から六日まで佐久間信盛勢が包囲していた大坂本願寺を攻撃。五月上旬には播磨へと進み、別所氏方の神吉城、志方城、高砂城を包囲しました。信雄ら北畠勢は志方城を監視する任を受けています。六月下旬には信忠、信孝らの軍勢が神吉城を総攻撃、これを落城させます。信雄のいた志方城へも総攻撃が行われたようですが、こちらは人質を出して降伏しました。三木城へは付城を築いての包囲戦を実施。信雄を含めた信忠勢は八月には帰陣していて、九月九日には信忠や信雄は安土城で相撲を観戦している。兄弟仲がいいね。
十月には大船を率いて大坂へ進出していた北畠配下の九鬼嘉隆が大坂本願寺へ兵糧を運び込もうとした毛利水軍を破っています。
しかし今度は十月に摂津国有岡城荒木村重織田氏から離反する重大事件が起こりました。この荒木村重の謀叛鎮圧に信忠軍団が出陣。北畠勢もこれに参加しました。有岡城への包囲が行われますが村重はなかなか降伏せず、翌天正七年(1579)九月に村重が城から逃亡。十一月にようやく城が陥落しました。
信雄ら北畠勢は当初は信忠の麾下にいましたが、有岡城包囲は織田氏の有力部将が輪番で行ったため伊勢に帰国しています。
……そしてまさにその有岡城攻めが大詰めを迎えていた天正七年(1579)九月、北畠信雄信長には無断で伊賀国へ出兵。惨敗を喫しました。

 

1579 第一次天正伊賀の乱

天正七年(1579)九月、北畠勢による伊賀侵攻が実施されました。信雄最大のやらかし事案ともいえる「第一次天正伊賀の乱」です。
伊賀国には大名がおらず、永禄年間頃より四郡の諸侍らが相互に盟約を結んで秩序を維持する体制をとっていました。いわゆる「伊賀惣国」です。彼らは他国からの侵攻には惣国が一味同心して防戦すると掟書に記しており、北畠勢の侵攻に対しても惣国を守るべく激しく抵抗しました。
『勢州軍記』では名張郡の下山甲斐守が北畠氏へと味方して伊賀出兵を進言したとされます。九月十七日に北畠勢は一万余の軍勢で場尾口(馬野口?)、名張口から伊賀国へと侵入(『木造記』)。しかし伊賀国は難所であり、地の利を得ない北畠勢は待ち受けていた伊賀惣国一揆の者たちによって散々に打ち負かされてしまいました。
信雄は下山甲斐守に騙されたと怒り、下山を捕らえたうえで伊勢へと撤退。下山はその後、獄中で自害することになります。
名張口からの殿軍を秋山右近将監、沢源六郎らが務め、追撃する伊賀勢と激しく戦いつつも伊勢国への退却に成功
しかし場尾口では殿軍を担った日置大膳亮、柘植保重が追撃してくる伊賀勢と「両人替々防戦」したが、難所の鬼瘤峠でついに柘植保重が討ち取られてしまいました。
その後、十月三十日に信雄が滝川雄利に書状を出していますが、その内容からするとどうやら滝川は十月になってもまだ伊賀で一揆勢と戦っていたようです。敵地に置き去りにされてる………?

 

1579 信長、怒る

信雄の無断出兵と大敗に父信長は激怒しました。九月二十二日に叱責状を信雄へと送っています。この叱責状では信雄の伊賀侵攻の理由を「上方への遠征忌避」とみていたようです。そして信長は柘植保重を討死させたことを言語道断と強く非難。信長は「若い茶筅が複雑な北畠家中をまとめていくために柘植保重は必要な家臣」と考えていたようです。
信雄の北畠家督継承からわずか四年。これで信雄は養子入りの際に付随した重臣四人のうち津田一安、沢井吉長、柘植保重の三人を失ってしまいました。以後は残った滝川雄利北畠家中で中心的な役割を果たしていくことになります。

縁もゆかりもない大名に養子入りした信雄。誰を支えにすればよかったんだ……

 

 

1579 伊賀攻めの理由

叱責状で信長は「遠隔地への出兵(荒木討伐)を逃れるために近場の伊賀へと侵攻したんだろ!」と怒っています。ただしこれはあくまで信長からみた伊賀出兵の理由であって、北畠側の思惑はそれとはまた別にも存在しました。
先にも書きましたが、北畠具親や坂内亀寿ら反信雄勢力は伊賀に協力者がいて「伊賀を活動の拠点」としていたとみられています。これは信長の命令で遠隔地へ出陣して領国を留守にすることも多い信雄にとっては不安の種です。伊賀を叩いておきたいという考えになるのは当然でした。
信雄は織田一門ではありますが、同時に北畠家督でもあります。信雄は家臣からの支持を得るために北畠領国の安定と秩序を維持しなくてはならない立場なのです。
またそれ以外の経緯として小川新九郎の覚書には「伊賀の領主らが北畠氏より伊勢国内に知行を与えられていたこと」「滝川雄利と柘植保重がその知行を没収するよう信意に献策していたこと」が記されており、この知行没収によって伊賀衆と対立したことも原因の一つであるようです。知行没収がいつなのかは不明。
伊賀攻めに敗れた信雄は当時名乗っていたとされる「信直」から「信勝」へと名前を変えています(天正八年二月までに)。伊賀攻めより前に改名した可能性もありますけどね。なお「信勝」という名前は天正八年七月までに今度は「信雄」へと変更しています。(信長弟で謀叛を起こした織田信勝と同名なことが問題だったのかも?)

 

1580 信雄、許される

天正八年(1580)。この年は正月十七日に播磨国三木城の別所氏が降伏。四月には長年争った本願寺顕如も大坂本願寺を退去。信長包囲網はほぼ瓦解しつつありました。
五月三日、信雄は兄信忠と安土で屋敷の普請を行っています。前年の伊賀攻めでの失態は父信長からはこの時期までには許されていたようです。
三木城が落ちた後も抵抗を続けていた花隈城も池田恒興らの攻勢によって七月二日にはついに陥落。この花隈攻めに関して九鬼嘉隆信雄から七月六日付の感状を与えられています。信雄がこの方面の指揮を執っていたらしい。

 

1580 居城を松ヶ島城へ移す

天正八年(1580)に信雄はそれまで本拠としていた田丸城から参宮道沿いで細汲湊に近い松ヶ島に城を築いて本拠を移しました(『勢州軍記』)。元々は細頸城があった場所とされています。
移転理由を『勢州軍記』では金奉行の玄智という者が金銀を盗もうとした際に田丸城に放火して城が燃えてしまったためとなっています。
しかし天正六年か七年に小川長正へと出された信雄の書状で「田丸城の破却を柘植保重と相談してやってくれ」と命じています。柘植保重は天正七年(1579)九月に伊賀で討死していることから、それ以前には田丸城の破却がすでに始まっていたと考えられています。放火での焼失もあったのかもしれませんが、移転計画そのものは既に決まっていて徐々に進めていたのでしょう。(あるいは当初から松ヶ島に城を築く構想があって、田丸城自体も一時的な本拠だったのかもしれませんね。想像ですが。)
ともかく具体的な経緯はわからないものの、この天正八年(1580)までには松ヶ島城が築かれ北畠氏の本拠が移っています。
現在はわずかに天守台とされる跡が残るだけですが、当時は五層の天守が聳える大きな城郭だったと伝わります。

 

1581 馬揃えと序列

天正九年(1581)正月十九日、安土城下で馬揃えが行われました。信長はこの馬揃えを気に入ったのか京でも実施しています。
二月二十八日に内裏東側に作られた馬場を織田一門、家臣らがそれぞれ煌びやかな衣装を纏い行進し、正親町天皇や公家衆がこれを見物しました。北畠信雄もこの馬揃えに参加しています。
馬揃えでは当時の織田一門武将らの序列が明確に現れていて、一門の行列順は織田信忠(嫡男)、北畠信雄(次男)、長野信包(弟)、織田信孝(三男)、津田信澄(甥)、織田長益(弟)と続きました。これがそのまま序列と考えられています。
信雄は信忠に続く御連枝衆第二位の位置につけていて、率いた人数は信忠が八十騎、信雄が三十騎、信包、信孝、信澄が十騎となっています。後継者信忠は除くとしても明らかに信雄が他の一門に比べ優遇されています。信忠同母弟、そして北畠家督という立場が信雄の格を高めていたと考えられています。

 

1581 第二次天正伊賀の乱

天正九年(1581)九月三日、信雄は再び伊賀国へと出陣しました。信雄にとっては汚名返上、名誉挽回のための大戦です。この伊賀出兵は信長の指示の下、織田の戦争として実行に移されています。
甲賀口からは滝川一益蒲生氏郷丹羽長秀京極高次信楽口からは堀秀政、不破光直。大和口からは筒井順慶織田氏の有力武将たちが伊賀国へと次々攻め込みます。
信雄は甲賀口からの侵攻で、北畠勢は他にも滝川雄利が別に部隊を率いて加太口から侵攻しました(『信長公記』)。
全方位から圧倒的な兵力で侵攻して来る織田勢に対して伊賀惣国一揆では降伏する者が続出し、抵抗する者も次々と敗れていきました。
織田勢は各郡ごとに担当を決めて一揆の掃討にあたり、山田郡を長野信包名張郡を丹羽長秀筒井順慶蒲生氏郷ら、阿山郡滝川一益堀秀政ら、そして阿加郡を北畠勢が担当しました。
いずれの郡も平定されて伊賀国は織田の勢力下となり、名張郡、阿加郡、阿山郡を北畠氏が、山田郡を長野氏が知行することとなりました。北畠信雄にとっては初めての領国拡大です!(加増?)
また以前北畠具親に協力したとされる吉原城主の吉原次郎もこの第二次天正伊賀の乱で討ち取られたようです。ただ後々にも北畠具親らが伊賀へ逃亡しているので、反信雄勢力を完全に押さえ込めたわけでもなかったらしい全然懲りないな伊賀の連中。
北畠領となった伊賀三郡には滝川雄利、田丸御所(具忠か中務大輔)、木造左衛門佐(長政)、日置大膳亮、藤方御所(具就か具俊)、岡田秀重、津川義冬、池尻平左衛門尉らが配置されています。
(……そういえば木造具政って大河内合戦以降全然名前出てこなくなる気がするけど、もしかして隠居して左衛門佐に家督を譲ってるんだろうか?)

天正九年からは滝川雄利が伊賀三郡と宇陀郡の支配を担当していたと考えられています。(2024年2月15日追加)

 

1582 安土への正月出仕

天正十年(1582)正月一日。信雄ら織田一門は安土城へ出仕、正月の挨拶に出向いています。信長はこの出仕の際に全員に百文ずつ持参することを命じていたという。まさかの入城料金。
十五日には左義長(火祭り)、馬場入りも行われました。この馬場入りでは前年の京都馬揃えから序列が変更になっており、信忠、信雄、長益、信包の順になっています。なぜ急に長益(有楽斎)の序列が急に上昇したのかはわからない。なんで?

 

1582 甲州征伐

天正十年(1582)二月一日、甲斐武田氏に従属する信濃の国木曽義昌が織田方へと内通しました。二月三日には信長にも報告が及んだようで武田征伐の実施が下命されます。
駿河方面からは徳川家康が、関東方面からは北条氏政が、飛騨方面からは金森長近が、そして美濃からは織田信忠が侵攻することになりました。勢州四家(滝川一益織田信孝、長野信兼、北畠信雄)も信忠勢に加わり信濃、甲斐へと出陣。
『勢州軍記』では武田氏が滅亡した田野合戦(いわゆる天目山の戦い)で信雄は相婿である津川義冬を滝川一益勢に加勢させ、津川家臣が土屋源五右衛門尉を討ち取ったとなっています。
武田勝頼は奮戦の末に妻子と共に自害(討死とも)、甲斐武田氏はこれにより滅亡しました。

各地を転戦させられる信雄。

 

1582 本能寺の変

天正十年(1582)六月二日、織田信長明智光秀によって京の本能寺で討たれました。
妙覚寺にいた織田信忠は二条御新造に移って明智勢を迎え撃ちましたが、激しい戦闘の末に敗れ自害しています。
もし信忠が逃げ延びていれば信長の遺志を継いで天下人となり天下一統は織田信忠の手によって成し遂げられたはずです。そうなれば秀吉が天下人になることもありませんでした。
そしてそうであれば、北畠信雄、伊勢北畠氏の未来もまた違ったものとなっていたでしょう……。

 

1582 北畠信雄と織田諸将の動き

本能寺の変が起こった時、信雄は松ヶ島城にいました。変を知るや信雄や家臣は「まことか、いつハりか」と狼狽して事実かどうか疑いましたが、六月三日には伊賀にいた家臣たちが伊勢へと逃れ始めて来たため、現実を受け入れざるを得なくなります。
信雄はただちに軍勢を集めて鈴鹿郡まで進軍しましたが、明智勢の動きは早く、六月五日には近江国にまで進出して安土城へと入っていました。
この時、蒲生賢秀・氏郷父子が信長への忠義から安土城にいた織田親族らを迎えいれて日野城で籠城し明智勢に対抗していました。蒲生父子は北畠信雄に人質を出して援軍を要請。信雄もこれに応えて近江国土山まで兵を進めています(『勢州軍記』)。
北畠・蒲生勢と明智勢が近江で激突する可能性もありましたが、そうはなりませんでした。
六月七日に羽柴秀吉が姫路城まで到達したことで、光秀は急遽安土城を発して京へ戻ってしまったのです。
そして六月十三日、織田信孝を大将とする織田勢と明智光秀の軍勢が山城国の山崎で激突。戦いは明智勢が敗退し、光秀は逃亡中に討ち取られました。十五日には坂本城が陥落しています。
まだ光秀が敗れたことを知らない信雄は十三日に安土城を攻めるべく兵を進めましたが、既に明智勢は退却しており天主などは明智弥平次(秀満)が火を放ったために焼け落ちてしまっていました(『寛永譜』)。(近年は土民による失火説の方が強そうですが)。
光秀を破った信孝らの軍勢は近江、美濃まで進んで明智方勢力を退け両国を平定。そして織田の諸将はそのまま尾張国清須城へと入りました。北畠信雄明智勢の去った安土城を接収し、その後は諸将と同様に清須へと赴いています。

 

1582 伊州蜂起

本能寺の変の直後、伊賀で一揆の蜂起が起こりました。
前年の第二次天正伊賀の乱を恨みに思った伊賀の反織田勢力が仁木城を包囲。伊賀国の織田勢力は北畠勢が土山まで進出してきたことから信雄を頼って援軍を要請しています。
光秀が京へと向かった翌日の六月九日、信雄は沢源六郎、秋山右近将監、芳野宮内少輔ら宇陀勢と本田左京亮(国司重臣)、天野佐左衛門尉(尾張出身家臣)を鎮圧のために先陣として伊賀国へと派遣しました。北畠軍の侍大将らが国司家時代からの北畠家臣と尾張出身家臣で構成されています。信雄時代の北畠氏の特徴ですね。
初戦では本田左京亮の家老森八郎左衛門尉が伊賀勢と戦い討死。光秀が討たれた後も戦いは続き、六月下旬には北畠勢が森田浄雲の一宮城を攻撃。本田左京亮らが塀に登って城内に攻め込み、浄雲を討ち取っています。また滝川雄利の軍勢も音羽城を攻めて敵を多くを討ち取るなど、北畠勢が反織田勢力の一揆を鎮圧させました(『勢州軍記』)。
北畠信雄は信長横死後の対応が優柔不断であったと評価されることもありますが、軍勢を近江国まで進軍させた段階では伊賀での一揆にも対応しており、明智方に本格的な攻勢を実施することは難しい状況でした。優柔不断で攻勢に出れなかったわけではありません。
織田信孝は摂津衆や羽柴秀吉と連携することで山崎で光秀を討つことができました。しかし信雄には六月十三日段階で周囲に連携できる織田方の大きな勢力は存在せず、光秀に兵力で劣るであろう信雄が単独で戦いを挑むのは厳しいものがあります。
近場の方面軍は信忠軍団ですが、主力の河尻秀隆は甲斐国森長可毛利長秀信濃国重臣らは旧武田領国に赴任しており、同じ伊勢衆の滝川一益上野国、弟信孝も摂津にいるため、六月三日から十三日の間では信雄が連携可能な勢力がまったくいないのです。
柴田勝家は六月九日に越前国北庄城まで帰国していますが、なかなか近江へは進出できないでいました。徳川家康は変が起こった時には堺におり、慌てて近江、伊勢を経由して三河へ帰国しています。(大和国通過説もある)。とても数日で信雄と合流など出来ようはずがありません
帰国後の家康は六月十四日には徳川勢を率いて尾張国鳴海まで進出してきていますから、もしも秀吉の大返しがもう少し遅れていたら、北畠信雄徳川家康柴田勝家らが連携して近江方面から光秀を攻めていた可能性もあったのかもしれませんね。
(でもそうすると天正壬午の乱での徳川の対応が遅れてしまったかも?)

上手いこと連携できていれば天下人織田信雄もありえた……?

 

1582 山崎の戦いに参加した北畠旧臣

あまり知られていませんが、北畠旧臣らが明智光秀の軍勢に加わり山崎の戦いで討死したと伝わります。『北畠御所討死法名』には「天正十年六月十三日明智光秀ト一所ニ討死」とされる武士の名前が十名記載されています(ただ信憑性が微妙な史料ではあります)
大宮九郎右衛門尉光成、松永左兵衛尉秀次、大島勘蔵頼通、畠山小助高義、大宮多気丸吉守、芝山小次郎秀時、家城紋覚頼高、鈴木久右衛門尉家重、桑原伊豆守森信、稲生覚内時秀の十名です。
大宮、芝山は三瀬から逃れた二人ですね。具親がいた備後鞆の浦から短期間で京都へ辿り着けるとは思えないので、おそらく彼らだけが何処か(伊賀?)に潜伏しており、本能寺の変を好機と捉えて加勢したのではないでしょうか。乗るしかねぇこのビッグウェーヴに!
天正九年に死去したとされる鳥屋尾石見守満栄も子息へと「汝主君の為に信長に一太刀うらみよ、我死すとも汝が守神とならん」と言い残していたといわれます(『伊勢国司記略』)。発言の真偽は不明ですが、事実なら彼も最期まで忠義を全うしたようです。

 

1582 伊賀への対応

天正十年(1582)七月、信雄は滝川雄利、秋山右近将監を大将とする軍勢を伊賀国の滝野城へと派遣しました。
滝川らが加勢を求めたため小川新九郎が清須から出陣して滝野城へと向かっています。小川は奮戦し敵を破ったことで信雄より感状を賜ったようです。なお小川は九月には宮田城攻め、十月には嶋の原攻めで功を上げ、十一月にも雨乞城攻めからの撤退で殿軍を田丸中務大輔と共に務めています。大活躍。
本能寺の変の直後に伊賀勢が蜂起した話は『勢州軍記』がだいたいの出典ですが、変の翌日に北畠家臣が伊賀から逃れてきた事や、その後に伊賀へ出兵したことは当事者である小川新九郎の覚書にもあるので概ね事実なのではないかと思います。

 

1582 清須会議

天正十年(1582)六月二十七日。尾張国清須城で織田氏重臣らが織田氏の今後を決める談合を行いました。談合のメンバーは「羽柴秀吉」「柴田勝家」「丹羽長秀」「池田恒興」の四名で、談合の内容は主に「今後の政権運営方針」「所領の配分」の二つでした。
通説では織田家督を信雄とするか信孝とするかで揉め、柴田勝家が信孝を推したが羽柴秀吉が丹羽や池田を味方につけ信忠嫡子の三法師を推挙して織田家中の主導権を握るようになっていったとされています。
しかし現実にはそんなことはなく、織田家督は「三法師」で皆が最初から同意していました。そもそも清須城にわざわざ参集したのは、三法師が清須城にいたからであったと考えられていますからね。

 

1582 名代争い

家督争いはありませんでしたが、信雄と信孝の諍いは実際にこの清須会議で発生しています。それは「家督」ではなく、その「名代」の地位を巡るものでした。つまり幼少の三法師(三歳)の代行者に誰がなるのかで信雄・信孝兄弟が揉めてしまっていたのですね。
北畠信雄は信長生前から信忠の同母弟ということで信孝ら一門よりも上位として扱われています。三法師の直接の叔父にもあたりますし、血縁の濃さ、格では信雄が名代となるのが当然であり、信雄も当然それを望みました。
しかし信孝は明智光秀討伐の大将であり、信長の敵討ちという面では抜群の功績があります。そのため一門内での立場向上を求めて、やはり信孝も名代の地位を望みます。
三法師と血統を同じくする信雄を名代とすれば、嫡流ということで家督を継ぐ三法師の正統性がより維持されますが、しかしそうすると弔い合戦の功労者でるある信孝の功績が低いものとして扱われてしまう。それぞれにそれぞれの立場があり、両者はなかなか妥協できないできないでいました。
そのため四名の重臣らは話し合った末に「これもう名代は置かんでええやろ…」となり、名代は設置せずに四名の重臣に三法師傅役の堀秀政を加えた重臣五人の合議で織田政権を運営すると決定し、これを信雄と信孝に同意させました。
織田信長の子息を政権運営から外すことは通常ではありえないことですが、宿老たちは両人のどちらかに権力を集中して付与することを危ぶんだようです。天下をまとめる織田政権を維持するため仕方のない措置でした。(柴裕之『清須会議―秀吉天下獲りへの調略戦―』)

 

1582 所領分配

明智光秀織田信長、信忠らが死んだことで彼らの担当地域は領主不在となってしまいました。この清須会議ではその所領を各重臣らに分配しています。

北畠信雄尾張国を得ています。信孝には美濃が与えられていて、濃尾両国が織田家督であった信忠の統治する織田氏本国であったことから、織田一門の上位二人に分割して与えられたようです。
これで北畠氏は尾張国と南伊勢五郡、大和国宇陀郡、伊賀三郡(と志摩国?)を領有することになります。何万石あったんでしょう?百万石くらいあったんでしょうか?

 

1582 伊勢・志摩・紀伊の国境変更

天正十年に伊勢・志摩・紀伊の国境線が変更されました。
紀伊国新宮の堀内氏善が勢力を志摩国尾鷲方面にまで伸長させており、この時期の北畠領、堀内領の勢力圏がそのまま国境として定められたようです(九鬼領もかな?)。
どういう手続きで国境を変更したのかよくわかりませんが、前年に織田信長が堀内氏善に「紀州無漏郡(牟褸郡)境目限相賀為神領」と送っているので、もしかすると信長が死ぬ前に決めていたのかもしれませんね。
まぁとにかく志摩国英虞郡はこの時期に三つに分割されたようです。伊勢・紀州国境は荷坂峠とし、伊勢・志摩の国境は浜島とされ、現在一般的に認識されている志摩国の国境線となりました。結果として志摩国は大きく面積が減少しています。

(水田義一「紀伊半島南端の国境変遷と画定」)

 

1582 清須城へ居城を移す

天正十年(1582)七月までに信雄は清須城へと移りました。
それまでの居城であった伊勢の松ヶ島城には津川義冬が置かれ南勢奉行として支配を担当することとなっています。義冬の妻は北畠具教の娘なので信雄とは相婿・義兄弟になります。具教粛清からまだ六年。なおも北畠嫡流国司家)の血縁者にあることが、南勢支配の正統性を担保していたのではないかとも考えられています。
清須に移った信雄は兄信忠の家臣だった者たちも召し抱え、北畠家中は旧織田家臣、北畠家臣、旧信忠家臣らで構成されるようになっています。

 

1582 信雄の織田復姓と大名北畠氏の消滅

この年、北畠信雄は織田姓へと復姓しました。
詳細な時期は不明ですが、清須へ移り織田氏代々の本拠である尾張国の支配へ乗り出した七月なのではないかとみられています。ただ足利義昭が九月に出した御内書では「北畠中将」となっていることから、復姓は翌年の正月頃ではないかという説もあります。はっきりとわかる史料はなかったはずです。
ともあれ、この復姓によって紆余曲折あれど二百年以上に渡って長らく続いてきた「大名としての伊勢北畠氏」は突然、消滅しました。あまりにもあっけない。嘘でしょ……。

……北畠氏が消滅したので、別にここで書くのやめてもいいんですが、まだ一応北畠関係の出来事が残っているので書いていきます。そう、かつて信雄に反攻した具教弟の「北畠具親」が国司家再興を目指して再び足掻くのです。

……伊勢国司家の再興と書いてますが、そもそも信雄も具教娘の婿として伊勢国司家を正式に継いでいるので国司家当主なんですけどね。他になんて書いていいかわからないから国司家再興と書いてます。(残党の蜂起?)

 

1582 信孝と抗争

天正十年(1582)六月の清須会議で決定された織田氏の運営体制は半年も持たずに瓦解織田家臣たちは信雄vs信孝の両陣営に分かれて争うようになりました。
信雄は暫定的な織田家となって羽柴秀吉らが支援。信孝には柴田勝家らが味方していて、天正十年(1582)十一月から十二月にかけて信雄&秀吉らによる信孝討伐の戦いが起きています。戦いは柴田勝家が豪雪のため越前を出ることができずに信孝方が敗退し降伏しました。

 

1582 北畠具親の五箇篠山挙兵

天正十年(1582)の十二月晦日北畠具親が五箇篠山城で挙兵しました(『勢州軍記』)。
年末年始の弓矢事という迷惑極まりない挙兵です。
信雄が信孝攻めで美濃へと出陣した隙を突こうとしたのかもしれませんが、信孝は早々に降伏したため信雄勢は十二月二十五日にはすでに尾張へと帰国していました(諸説あり。後述)。信孝や柴田と連携を試みていたのかは定かではないものの、いずれにせよ間の悪い挙兵でした。
この具親の国司家再興軍には三瀬御所・中御所・大河内殿・坂内殿・長野殿の牢人吉野・多武峰・根来・粉河の法師ら三千人余もの兵が集まりました。伊勢国内ではなおも北畠具親、伊勢国司家の再興軍に味方する者たちが多かったことが伺えます。
中心にいたのは国司家旧臣の安保大蔵少輔、岸江大炊助、稲生雅楽らで、再興軍らは多気郡の五箇篠山城へと籠城しました。
小川新九郎が覚書にこの戦いの事を武功談として書き残しており、戦闘経過を知ることができます。
十二月晦日に挙兵した国司家再興軍は三千の兵を三つに分けました。具親が自ら千人率いて五箇篠山城へ籠城。残り二千は松ヶ島城攻撃へと打って出ます。安保大蔵少輔が率いていたとみられる松ヶ島攻撃部隊は、さらにそこから千五百と五百に分かれ、千五百の軍勢は大河内方面から進み、五百の軍勢は御麻生園方面から進みました。
当時の松ヶ島城は信雄の義兄弟(相婿)津川義冬が預かり南勢支配を担当していました。すぐさま兵を繰り出して早期に勝負を決しようとする小川らに対して、津川は城を出て戦うことには消極的でした。津川としては籠城しつつ信雄の援軍を待ち、兵力の優位を確保してから討伐戦を始めたかったのでしょう。津川の態度に小川はおそらくかなりイラついている。
小川は拙速を尊ぶことの理を説いたものの埒が明かず、わずか百五十の兵を率い単独で勝手に出陣してしまいます。そして小川勢は松ヶ島城へと向かう安保率いる再興軍一千五百人と大河内の龍ヶ鼻で激突し、なんと寡兵の小川勢が安保勢を破って勝利しました。わずか百五十人の手勢で十倍の敵を切り崩した小川は松ヶ島城にいる津川に「早く後詰に来い」と出馬を催促しています。
後退した安保率いる再興軍は六呂木と篠山城のある片野方面を結ぶ「鳥はみ坂(鳥羽見峠)」で信雄方の侵攻を防ごうと戦いますが、またしても敗退。残る櫛田川を最後の防衛ラインとしたものの、ここでも敗れてしまい五箇篠山城へと退却しました。
防衛ラインを突破した信雄方は五箇篠山城へと進軍。この段階になってようやく津川が到着しています。小川が城を見て廻ったところ、城内には二~三百人しかおらず「案の外無勢」だったようです。城には一千人程いたはずですが、逃亡した者が多かったか、あるいはここまでの戦いに加勢して消耗していったのかは不明です。
信雄方は放火や水の手を絶った後、城攻めを開始。城へ肉薄する小川は多くの兵を失いながらも突撃していきます。日置大膳亮、長野左京亮、八田甲斐守らが小川に「ちょっと後退しろ!」と注意しますが、小川は攻勢を止めません。最後には大将である津川義冬までもが諫めに来たという。出典が小川の覚書であるため、自身の武勇を盛って話している可能性もありますけどね。
信雄方は具親に対して和睦(降伏)を勧告しますが、具親は条件として「伊勢半国」を要求。どう考えても無理な要求。信雄方はこれを拒否して再び城攻めとなります。
信雄方は激戦の末に二の丸までを落とし、具親勢も必死に落城は阻止しようと防戦しました。二の丸口では小川が安保大蔵と槍を交え互いに手傷を負っています。
しかしもはや具親方の敗色は濃厚でした。正月二日の夜、ついに具親らは城を捨てて伊賀国へと落ち延びました。活躍著しい小川新九郎には信雄から感状が与えられています。
伊賀国へと逃げ延びた北畠具親は再びの挙兵を目指しますが、滝川雄利の攻勢によって伊賀の拠点も制圧されたようです。
反信雄派が挙兵することはこれ以後ありませんでした。国司家再興という北畠具親の野望はついに絶たれてたです。


■信雄の安土入城について(2024年2月15日追加)
以前は信雄の安土入城は三法師に一ヶ月遅れての天正十一年(1583)正月下旬と考えられてきました。
しかし近年では信雄は新たな織田家督として三法師と共に供奉され安土城に入っていたが、北畠具親の反乱に対応するために領国へ一度下向した上で正月下旬に再び安土城へ入城したのではないかと指摘しています。(西尾大樹「豊臣政権成立期の織田信雄とその家臣-滝川雄利文書の検討を中心に-」)
(この説では史料にある「廿五日清□(洲ヵ)令帰城…」は美濃への出陣のために率いていた信雄直属の軍勢を清須まで帰したものと解釈されている)

五箇篠山城から見る片野方面。具親が城へ向かってくる小川勢らを見た時も同じような景色だったんでしょうね。

五箇篠山城の曲輪。小川と安保が戦った二の丸口はどのあたりだったのだろう?

「北畠」の最期の戦い。

 

1584~ その後の織田信雄、北畠具親

信雄、具親の二人のその後についてざっと書いていきます。

北畠具親小牧・長久手の戦いでは蒲生氏郷に味方して城を開城させています。ただ徳川家臣の本多忠次にも手紙を送っているので、戦局を見た上で秀吉側に付いたようです。
戦後も大名に復帰することはなく、蒲生氏郷の客将として迎えられ、秀吉からも有爾村に千石の所領を与えられたとされます。そして二年後には亡くなったようです。

信雄天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いを経て秀吉に従うようになっています。この敗戦で南伊勢は没収されて蒲生氏郷に与えられたました。北畠氏の一族、家臣も多くが南伊勢を離れることになり、南北朝時代以来200年以上にわたって支配した南伊勢がついに北畠氏の手から離れました。ただ信雄が天正十三年(1585)に上洛しているのですが、その時期の『兼見卿記』では伊勢国司」と書いています。一応まだ北畠家督という扱いだったのでしょうか?
信雄は豊臣政権内で内大臣にまで出世。大納言までしか昇進できない北畠氏を凌駕する地位にまで昇ります。しかし天正十八年(1590)の小田原攻めの際に旧徳川領への移封を断ったことから改易されています。小田原在陣中には既に本国でも噂が流れていたようで、馴染みの尾張や伊勢から離れることを嫌う領国内の反発を抑えきれなかったらしい(柴裕之「織田信雄の改易と出家」)。
翌年には赦免され配流先の下野国から上洛。その後は伊予国道後でしばらく過ごしています。あくまで想像ですが、正妻で北畠具教の娘だった千代御前がこの時期に亡くなったようなので道後で湯治療養していたのかもしれません。二人の間に生まれた嫡男の秀雄は近江大溝を経て越前大野の領主となっていますが、慶長十五年に父に先立って亡くなりました。

そして北畠の名字ですが、受け継いでいく人はいませんでした。
千代御前の産んだ秀雄以外にも信雄の子供には木造具政(北畠晴具次男)の娘が産んだ信良がいましたが。まだ幼かったりそもそも信雄も改易されていたりで名乗らせるタイミングがなかったのかもしれません。弟とはいえ嫡男秀雄のバックアップ要員でもありましたしね。
結局、信雄の子が北畠を名乗ることはなく、慶長十七年(1612)に公家の中院通勝三男が北畠親顕を名乗って北畠を復活させています。その二年前に織田秀雄が亡くなっていることも、もしかしたら関係があるのかもしれません。
ただこの北畠親顕も子が無いまま早くに亡くなってしまい北畠氏は断絶してしまいました。

 

なんかこう……攻められてガッツリ滅亡したわけでも改易されたわけでもないという、初心者になんとも説明しづらい結末を迎えてしまった伊勢北畠氏。(織田になった後は改易だけど)

まぁでも、そういう儘ならない部分も含めて人間の歴史ですから仕方ないですね。

私は信雄時代も北畠氏のひとつとして捉えてますが、具教や一族の粛清で滅亡としてしまう人もいます。そういう人にとっては天正四年が伊勢北畠氏の滅亡なのかな。

信雄は最近は再評価されてるような気がするので、そのうち書籍とか出ないですかね…?実は結構頑張ってたんですよって感じのが出てくれると嬉しいです。

突然養子に出され頼れる相手も次々いなくなる中で頑張った北畠氏時代の信雄。再評価されてほしい。(ちなみに絵の元ネタは『月刊少女野崎くん』)

 

とりあえずこれでおしまいです。

間違ってても「ごめん」しかできないので信用し過ぎずにね!このブログは雑に掛けられたハシゴみたいなものなので!

雑な作りのムック本とかよりは頑張ろうレベルの感覚で作ってます(ムック本で戦国時代の伊勢北畠氏が特集されたことあるのか知らんけど…)。

 

主な参考文献
三重県史』 通史編「中世」
三重県史』 資料編「近世1」
『伊勢北畠氏と中世都市・多気
斎藤拙堂『伊勢国司記略』
藤田達生編『伊勢国司北畠氏の研究』
小川雄「織田権力と北畠信雄
柴裕之『清須会議―秀吉天下獲りへの調略戦―』
柴裕之編『織田氏一門』
柴裕之「織田信雄の改易と出家」
和田裕弘織田信長の家臣団』
和田裕弘織田信忠
豊田祥三『九鬼嘉隆と九鬼水軍』
水田義一「紀伊半島南端の国境変遷と画定」

……など。
詳しくは参考文献リストや史料リストをどうぞ

https://dainagonnokura.hatenablog.jp/entry/2023/05/01/221137

https://dainagonnokura.hatenablog.jp/entry/2023/05/01/220822

 

戦国大名伊勢北畠氏の歴史 その3(1570~1576)

戦国大名伊勢北畠氏の歴史 その3
具房上洛(1570)~三瀬の変(1576)までになります。

 

その1、その2の続きです。

dainagonnokura.hatenablog.jp

dainagonnokura.hatenablog.jp

 

 


1570 北畠具房の上洛と元亀争乱の発生

元亀元年(1570)二月、義昭・信長は全国の諸勢力に対して上洛を要請しました。上洛を求める触状が送られた勢力の中には「北畠大納言」の名前もあります。具教は大納言ではなく中納言なんですけどね(北畠大納言家ということなんでしょうか?)。信長と和睦した北畠氏は徳川家康、三好義継らと同様に足利義昭を支える勢力として扱われ、義昭の政権構想の中に組み込まれていました。
四月には伊勢国司北畠中将卿(具房)」が上洛し、京で諸大名らと能を鑑賞しています(『信長公記』)。伊勢国司が上洛するのはたぶん大永六年(1526)の晴具以来44年ぶり。一応公家のはずですが、全然上洛してない。本家も分家もみんな在国が状態化していて伊勢北畠氏の存在はやはりほぼ武家化しています(で、でも鮑とか茶を贈ったりはしてたはずだから…)。
この具房上洛の直後、信長が大軍を率いて若狭・越前へと侵攻しました。信長の伊勢侵攻直前の永禄十二年八月十九日付朝山日乗書状でも「阿波、讃岐(三好)か又は越前(朝倉)か、両方に一方可被申付躰候…」と触れているので、北畠氏の次は越前朝倉氏の順番だったらしい。
しかし浅井長政が突然寝返ったことで信長は退却を余儀なくされ、信長はそこから朝倉、浅井、三好、本願寺らと激しく争うようになりました。最近は元亀争乱とか呼ばれますが、昔は第一次信長包囲網とか呼ばれてた気がする。(信長の野望のシナリオだと新生でも信長包囲網だった)
この争乱に対して北畠氏が軍事行動を起こして信長や義昭を支援した形跡はみられません。元亀二年(1571)までは伊勢国内が天花寺氏の曽原籠城によって領国内が「騒動」となっていたためかもしれませんが、それ以降でも別に織田を助ける動きは見せてはいません。
一般的に永禄十二年(1569)で北畠氏は織田信長に従属したとして扱われることが多いのですが、この時期に援軍を出していないところを見ると「信長に従属したという認識は間違いなのでは?」と思います。北畠氏が従ったのはあくまで足利義昭なのでしょう。それにしても義昭にすら援軍は出してませんが。なんで?

 

1571 茶筅元服

元亀二年(1571)には養子となった茶筅元服して「具豊」と名乗り、義父となる具房は妹(千代御前、雪姫)を養女とした上で具豊(茶筅)の正妻としました。
茶筅」という名前は通称としても使用されてたのか、この後もそう呼ばれていることがあります。どうも世間的には「茶筅」で通じていたらしい。(公家の日記や家臣の書状でも茶筅とか茶筅様とか書かれてる。信長公記もお茶筅公。)。
具豊(茶筅)の祝言は船江城で行われ、その後は大河内城へと居を移しています。
ただ元服時期に関しては諸説あり、元亀三年正月もしくは四月に信忠、信孝と共に三兄弟が同時に元服したという説も存在します。
茶筅の名前は具豊、信意、信直、信勝、信雄と変遷したとされます。信雄が一番著名ですね。ちなみに信雄の読み方は「のぶかつ」「のぶお」系図でも併記されていて、よくわからない。
どちらの読みも間違っていなくて公家だと雄が上にあれば「かつ」と読み、下にあれば「お」と読むから豊臣政権下で公家成した時に「のぶお」と読むように改めたのではないか?……という説もある(『翁草:校訂12』花山院前大納言定成卿の説らしい)。なので偏諱を貰った人はだいたいが「かつ○○」と読むが、下にある信雄や秀雄、良雄が「○○お」になっている。ただこれも一つの説に過ぎないので正解なのかはわかりません。一応、私は「のぶかつ」で呼んでいます。

 

1572 具房、いつの間にか右中将になる

元亀三年(1572)三月、北畠国永が具房に和歌を詠んで贈っている(『年代和歌抄』)。
この中では「中将具房」となっており、具房がいつの間にか中将になっていることが判明します。
これは三条西実隆が具房に与えた有職故実書『三内口決』でも「正四位下行右近衛権中将源朝臣具房」となっているので間違いありません。
というか『信長公記』でも永禄十三年の四月に上洛した際に「伊勢国司北畠中将卿」となっている。永禄六年『補略』(公家の名簿)では少将だったので、つまり永禄六年から永禄十三年四月の間に昇進しています。
しかしなぜか元亀二年の『堂上次第』(公家の名簿)では「北畠少将具房 伊勢国司」となっていて少将から昇進していない。それどころか元亀二年、元亀四年、天正四年の『堂上次第』はすべて少将となっている。
(「天正四年の『堂上次第』について-特に滅亡前夜の北畠一門に関する記載を中心に-」赤坂恒明)

北畠具房……おま

公家たちから昇進したこと忘れられてない……?

 

1573 武田信玄に協力を約束する具教

元亀三年(1572)の冬、武田信玄織田信長との同盟を破棄して徳川領へと侵攻を開始。遠江を席巻した武田勢は十二月には三方ヶ原で徳川家康を破り、年が明けると三河まで進軍し野田城を包囲しました。
さらにこの状況で将軍足利義昭までもが信長を見限って挙兵してしまい、朝倉・浅井・本願寺・三好と抗争中であった信長は一気に苦境に陥りました。
こうした中、北畠具教は三河在陣中の武田信玄へと使者(鳥屋尾満栄)を派遣。信玄に「いくらでも船を出して協力するぜ!」と約束したといいます(『勢州軍記』『甲陽軍鑑』『総見記』『伊勢国司記略』)。
がっつりと信長を裏切っています(いやその前に足利義昭が信長を裏切ってるから……北畠氏の立ち位置はどういう扱いになるんだ???)。
しかしこの企ては武田信玄が翌四月に撤退、間もなく死去したことで水の泡となりました。七月には足利義昭が追放され、八月になると朝倉義景浅井長政も滅ぼされてしまい包囲網は瓦解します。
競馬でいうと単勝1倍台の馬に大金を賭けたのに、容赦なくぶっ飛んだみたいな感じの北畠具教。予想家たちの「鉄板級の一強本命馬!」みたいな予想を真に受けてしまったのかもしれないね。かわいそう。でも博打は自己責任なので仕方ないね!

武田信玄に協力しようとしたが、信玄が撤退&病死したので未遂に終わった。

 

1573 大湊への出船要請

天正年間になると北畠氏の織田信長に対する軍事協力が活発となります。
天正元年(1573)九月から十月には大湊に「桑名表」「北表」へ大船を出す催促や勝手に帰ったことを叱責した北畠氏の史料が多数残っています。
九月より信長が出馬して行っていた長島一向一揆攻めに海上からの支援を求められていたのですが、その中に勝手に帰港した大湊の船があったようです(そもそも大湊には長島の足弱(女子供)らを運んだりして協力している者もいた)。北畠氏は「言語道断の曲事!」と大湊へ再出船を要請しています。あまりに矢のような催促がなされているのですが結局船は出ていません。織田・北畠・大湊の間に立たされた担当者の鳥屋尾満栄に同情してしまいます。

この大湊への出船命令は信長からの朱印状を受けた具豊(茶筅)が九月二十日付の書状で津田一安を使者として実施を命じています。さらに義父である具房にも出船要請を依頼したようで、「本所(具房)よりもかたく御申つけ…」と書状に記しています。
しかし十月十三日には具房と鳥屋尾満栄が大湊に対して桑名への出船を厳しい言葉で指示しています。翌日には具教、具房が奉書を出して「当国の御一大事!」と大湊に再出船を催促し、さらに大河内城に行って申し開きするように指示。同日に大湊老衆は湯浅賀兵衛尉に船が帰港した件についての調停を依頼。しかし二日経っても出船しなかったようで、十六日付で催促する奉書や書状が三通も出されます。それでも船は出ず、十九日、二十日と鳥屋尾らが早く出船するよう命じています(船を出す気配のない大湊に対して鳥屋尾は「迷惑千万!」とキレ散らかしている)。
二十四日には「明日!必ず船を出せ!」と翌日必ず出船するように命じたが、その二十五日には信長が長島攻めに敗退して岐阜へ帰陣。大湊の再出船は結局間に合わなかった。
真面目に桑名に逗留していた船は伊勢・志摩へと帰港していったようで、大湊の船のうち一艘は九鬼嘉隆に預けたと鳥屋尾満栄が大湊へと連絡しています。
また二十七日付の湯浅賀兵衛尉守盛書状では「大河内に召され、信長の指図として船三艘を大湊へ預け置くと伝えられた」としている。大河内というとこの時は具豊(茶筅)の居城なので具豊を通じての指示なのでしょう。
二十五日には織田家臣の塙直政が大湊の廉屋七郎次郎が預かっている今川氏真の茶道具について詰問、二十九日には北畠具教、具房が信長に従って茶道具を差し出すよう命じている。腹いせなのか他人の茶器をカツアゲしようとする信長くん。

これまで信長の戦争へまったく関与してこなかった北畠氏ですが、この大湊への出船要請では具教も具房も鳥屋尾満栄と定恒父子、方穂久長ら譜代の重臣、奉行人に命じて再出船をしきりに促しています。湯賀守盛書状でも「是ハ信長様御さしつ…」となっているので北畠氏が信長の命令で動いているのは間違いありません。
一般的には永禄十二年(1569)の大河内の開城段階から北畠氏は織田信長に従属したとされることが多いですが、実際に従属的な立場になっていったのはやはりこの天正元年(1573)頃からではないでしょうか?

中間管理職(?)の悲哀。結局船は出なかった。

 

1573 信雄の初陣?

一般的には信雄(茶筅)の初陣は天正二年の長島攻めとされる……はずですが、もしかしたら天正元年には既に戦に出ていたかもしれません。
十月十三日付北畠具房奉行人奉書では「御方様御陣所」という文言が使われています(『三重県史資料編近世1』p129)。
北畠氏で御方様というと後継者のこと。つまりこの時期だと信雄(茶筅)のことになるのです。既に元服しているから信長に「来い」と言われて参陣していても別におかしくはないでしょうしね。
まぁあくまで推測なのでわからないですけど!

 

1574 信雄上洛?

天正二年(1574)三月、信雄(茶筅)が上洛……した?らしい。たぶん。
二十八日に信長が蘭奢待を切り取っているのでそれに合わせたものでしょうか?史料に年が書いてないので、ちょっとはっきりとはわからない。
具房が三月十日付で奉行人奉書を出し「御方様御上洛、来二十四・五日」として人足、伝馬等について指示。津田一安も三月十一日付「信長上洛被申候ニ付、御方様御供候…」と北監物宛に書状を出している。
『尋憲記』では「子チャセン(茶筅・信雄)ハ将軍罷成候」と信雄が話題に上がっているのでその場にいたのかもしれません。
(『三重県史 資料編中世2』『三重県史 資料編中世3中』『北畠氏関係資料記録編』)
ただ石水博物館の図録『佐藤家文書の世界』ではこの「御方様」を具房の妻としていました。
個人的に信雄(茶筅)のことかなと思っていますが……どうでしょう……。

 

1574 長島一向一揆の殲滅に参加

天正二年(1574)七月、ついに長島一向一揆の殲滅戦が行われました。
具豊(茶筅)を大将とする北畠勢も織田方として出陣しています。『信長公記』では七月十五日に国司茶筅公、垂水・鳥屋尾・大東・小作(木造)・田丸・坂奈井(坂内)・是等を武者大将として召列れられ、大船に取乗りて候て参陣なり」と記しています(いや大東って誰?他のメンバー的に大河内のこと?)。
北畠・九鬼らはかなりの数の船を集めたようでその光景は綺羅星雲霞」のようだったらしい。
元服した具豊(茶筅)が伊勢国司北畠氏の軍勢を率いる大将として活動し、そして大船を用意できていることから大湊を織田、北畠が掌握したことがわかりますね。
以前の大湊は北畠氏も完全に掌握していたわけではなく、お互いを利用するために形式的な被官関係を結んで自治を認めていたに過ぎませんでした。しかし織田の時代になると廻船衆への影響力は強められていき織田への従属度が増したと考えられています。
なおこの年は五月に具房がお忍びで伊勢神宮へ参宮しています。なんでお忍びで行ったのかは不明。悪いことしてたんですかねぇ……。

 

1575 長篠の戦いと信長からの黒印状

天正三年(1575)五月、具豊(茶筅)が北畠勢を率いて長篠の戦いに参陣しました(『勢州軍記』)。
信長・家康勢はこの戦いで武田勝頼勢を壊滅させる大戦果を挙げましたが、具豊(茶筅)は弟の神戸信孝、叔父の長野信包(信良から改名)ら伊勢の織田一族と共に中陣を守ったとされています。
また戦いの翌日、五月二十二日付で信長が北畠具教・具房父子へと黒印状を出しています。
具豊(茶筅・信雄)帰国の日は津田一安が伝えます。具豊帰国については納得したので津田から詳しく聞いてください。武田勝頼三河へ攻めてきたので十三日に出馬して昨日二十一日に長篠で戦い悉く討ち取りました。味方は怪我人が少々。追ってまた知らせます。」こんな感じの内容。(河内将芳「(天正三年)五月二十二日 織田信長黒印状写」(奈良史学37号 二〇二〇年))
翌六月に具豊(茶筅)は具房から家督を譲られることになるため、この家督相続に関連しての帰国とみられています。

長篠合戦段階では具豊(茶筅)はまだ家督を継いではいないものの、後継者として北畠勢を率いて軍事行動を指揮。北畠氏とはあまり関係のない織田氏の戦争への参加を重ねています。
長篠合戦で武田氏を破ったことで信長が天下人を意識したともされますが、そうだとすると北畠氏の家督交代はそうした信長や天下の事情とはあまり関係なく以前から進められていたのかもしれません。

 

1575 信雄へ家督を譲る

天正三年(1575)六月二十三日頃に具豊(茶筅、信雄)が家督を継承、伊勢国司北畠氏の当主となります。
具房はまだ二十九歳でしたが、早くも隠居することになりました。
伊勢国司ニ信長次男御所ト申キ、六月ニ家督ニ成テ伊勢国田丸ノ城ニ入アリ、悉シタカウ、神領ヲモ落サル、也」(『神宮年代記松木』)
この家督交代は実父である信長の意思が働いていたとされます(『勢州軍記』)。
ただ『日本人名辞典』では「具房病弱の理由を以て信雄(茶筅)を国司となすのを止むなきに至り…」となっています。話の元になった史料はおそらく『寛永譜(星合氏)』や『寛政譜』で、「所労(病気)」によって具豊(茶筅・信雄)を国司としたとなっています。また『足利季世記』でも具豊(茶筅・信雄)を養子とする際に病気で子供がいなかったと書かれていて具房の病気に言及しています。具房は肥満であったとされ、しかも若くして(三十四歳)亡くなっているので若いうちから病気であった可能性は十分考えられます。ただ同時代史料では言及がないので、病気説が事実なのかははっきりとしません。
まぁ……「具房の病気」と「信長の意思」は両立するのでどちらも家督交代の理由として正しいのかもしれませんが。
六月二十三日、伊勢国司家の家督が具房から茶筅(具豊・信雄)に譲られ、信雄は伊勢へと入国しました(『多聞院日記』)。「伊勢へ入国」となっているので五月の長篠合戦後、具豊(茶筅)は岐阜に滞在していたのかもしれませんね。
具豊(茶筅)はこの年の七月までに名前も「具豊」から「信意」に改名し北畠氏通字の「具」を捨てました。読みは寛永譜だと信意(のぶもと)になっています(これ以降、信意→信直→信勝→信雄と名前が変わりますが、面倒なので以降は信雄で統一して書いていきます)。
この改名には従来の北畠氏のあり方からの離脱を宣言する意味合いがあったと考えられています(ただし政郷や材親など偏諱により具を名乗らなくなった当主はこれまでにも存在する)。
さらに実父信長や兄信忠の昇進、任官に合わせて信雄も左近衛権中将に任じられ、本拠も大河内城から伊勢神宮や大湊に近い田丸城へと移転しました。田丸城には北畠氏有力一族の田丸氏がいましたが、田丸の南東にある岩出城に移ったようです。
北畠氏権力の体制は、それまで国司奉行人が務めてきた役割を織田一族で後見役であった津田一安らが務めるようになっています。もちろん鳥屋尾氏安保氏稲生氏も津田と一緒に連署しているので元々の北畠氏重臣らもこの信雄体制の中で重要な地位にいたと思われます。
…ただ天正三年十一月に信雄が出した判物とほぼ同内容の奉行人奉書が、翌天正四年五月に具教からも発給されています。世義寺先達坊への安堵状ですが、なぜ双方から同じような内容のものを受けているかは謎。この年にはすでに北畠国司奉行人の奉書発給は停止しており、家督を継いだ信雄と津田一安らを中心とした行政体制へと移行していました。しかもこの奉書は具教の奉行人、教兼単独署名のもので、具房奉行人の房兼は連署していない特殊な出され方をしています。具房の関与しないところで、領国支配に国司家が影響力を残せるよう具教が動いていたのではないかとも考えられています。
逆に信雄と国司家の連携と見る向きもありますが、いかんせんこの一例しかないためはっきりとしません。権力の継承がスムーズに進んでいなかった可能性はあるものの、これ以外では領国支配に関して両者が大きな齟齬をきたしているようには見えないのでよくわかりません。
北畠家督となった信雄は「御本所」家督を譲った具房は「中ノ御所」具教はそれまで通り「大御所」と呼ばれました。
北畠氏はこの天正三年(1575)を契機として織田権力の中に明確に組み込まれました。これ以後は織田の為に数々の戦場へと赴くことになります。

田丸城本丸の天守台。信雄は本拠地をこの城へ移した。北畠氏が田丸城へ本拠を置くのは南北朝時代以来なんと233年ぶり。

 

1575 具教と具房の動向

具房は家督を譲った後、信雄と一緒に田丸城へ移ったようです(『勢州軍記』)。
一方の具教は多気に残ったらしい。このあたりからも具教と具房で意識の差を感じなくもないですね。具教は翌天正四年(1576)七月までに多気から小石へ移り、さらにそこから三瀬へと移っています。
(「前の国司小石と云所におはすなり、たけ(多気)をば飽き給ふ…」『伊勢参宮海陸之記』)
また九月九日付で北畠中将宛(具房)に足利義昭から御内書が届いています。「私が京都に帰るための協力を毛利輝元に頼みました」みたいな内容。再び信長包囲網が組まれようとしていました。『堂上次第』では少将と書かれ続けている具房ですが、ここではちゃんと中将と書かれている。義昭は具房が中将だと忘れていない。素晴らしい。ありがとう義昭。(ただこの北畠中将が信雄の可能性も微妙にあるけど…)。

この義昭からのお手紙と、直後に起こる北畠一族の粛清が関係しているかは不明。でも義昭の動向が関係したと考える方が自然かもしれませんね。七月まで小石にいた具教が三瀬に移ったのも、もしかしたら義昭へ味方して挙兵するためだったのかも?

 

1575 越前一向一揆討伐

天正三年(1575)八月、『勢州軍記』には信長親子(信雄や信孝)が越前一向一揆の討伐に向かったことが記されています。『信長公記』にも信雄、信孝、信包の伊勢衆が参陣したとなっていますので、織田の戦争にまた北畠勢を率いて参加していたようです。

 

1575 熊野武士との戦い

天正三年(1575)、熊野新宮の堀内氏善が三鬼城(この時期は志摩国の南部)へと攻め寄せました。北畠氏に属する三鬼新八郎が堀内被官の曽根弾正と対立しいたことが発端で、この抗争は北畠氏の命で九鬼嘉隆が援軍に駆けつけ堀内勢を敗走させています。

これに関連する書状として天正三年十一月二十七日付の九鬼嘉隆書状写が残っていて、志摩国の越賀氏へ「参陣した功を三助殿様(北畠信雄)に申し上げておく」と伝えていいます。
しかし城を奪われた堀内勢は逆襲に転じ、九鬼勢が帰城するのを見計らって再び攻勢をかけ三鬼城を陥落させました。この時にどういう訳か三鬼氏が九鬼氏と不和になっていたせいで九鬼氏が援軍を怠ったとされます。(堀内氏が九鬼氏から妻を迎えたともいわれるのですが詳細はわかりませんでした)
天正四年(1576)、「三鬼城を奪還しましょうよ!」赤羽新之丞から進言された信雄は志摩国の長島城(紀北町)に加藤甚五郎を入れ、熊野侵攻を命じました。加藤は赤羽と共に南下して三鬼城を攻めこれを落城させます。
堀内勢は反撃すべく二千の兵で再び三鬼城へと侵攻、城を奪い返しました。敗れた加藤甚五郎は長島城まで退却して籠城。堀内勢は今度は三千五百の兵で長島城へも攻め寄せ、十日間絶え間なく城を攻めました。しかし加藤は三鬼での雪辱を果たすべく健闘。北畠氏の援軍が来ると信じて必死に防戦を続けます。

……しかし後詰にやってきた赤羽新之丞が堀内方へ寝返ってしまい、もはや万事休す。長島城は陥落し加藤甚五郎は滅亡。北畠方の侍は伊勢へと落ち延びていきました。(赤羽は自分で奪還しようと言い出しておいてさっさと寝返るのなんなん……)
天正三年からのこの熊野地域を巡る堀内氏との抗争は、かつて熊野武士が北畠氏の幕下にあったことから、人々は大御所北畠具教の存在が背後にあるのではないかと噂したといいます。

『勢州軍記』や古めの自治体史からの内容なので、出典がいまいちわからない部分も多いですが、九鬼嘉隆の書状写が一応あるので戦い自体はあったのではないでしょうか。

(『勢州軍記』『新宮市史』『尾鷲市史』)。

 

1576 信長への年始挨拶

天正四年(1576)正月、北畠氏重臣鳥屋尾満栄信長への年始挨拶のために岐阜へと赴きました。しかし信長は北畠氏からの進物を砂の上に置き、縁側で薙刀を振るい奥へと入っていった。これを見た鳥屋尾は信長が国司家を滅ぼすつもりなのだと悟ったという(『勢州軍記』)。
……本気で滅ぼすつもりであればわざわざそんな危機感を抱かせるマネはしないのでは…と思うのですけど……なんなん?。「妙な事はせず大人しくしてろ」という信長からのメッセージなのでしょうか……?
ちなみに翌二月には北畠具教が一族の北畠国永へと歌を贈っているのですが、自身の粛清を予感していたのかと思えるような歌となっているので紹介しておきます。

むかしかたり 今ひとたひと 思ふ身の
あすをもしらぬ 世をいかゝせむ

 

1576 具教騒動

天正四年(1576)十一月二十五日、信長の命を受けた信雄によって北畠具教が三瀬館で殺害されました。一般的には「三瀬の変」と呼ばれていますが、『勢州軍記』では第七「具教騒動」となっています。
『勢州軍記』では「具教らが信雄を蔑ろにしていた」というのを理由として挙げていますが、そもそも武田信玄に協力しようとしていたりするから蔑ろにしてなくても始末される運命だったような気がする。っていうか具教は結構いろんな人のこと嫌ってますね。具房(嫡男)、具房生母(正妻)、木造具政(弟)、信雄(養子)……軍記物なので本当かわからないですが「嫌いになったらもうとにかく嫌い!」ってタイプの性格だったんでしょうか。
殺害された具教は塚原卜伝に奥義一ッの太刀を伝授されたほどの達人であったとされています(『勢州軍記』)。具教剣豪説がどこまで事実なのかはわかりませんが、柳生宗矩が江戸時代になって書いた書状に伊勢国司が塚原卜伝の弟子だったことを記していて、また小川新九郎(信雄家臣)の覚書では一族の大河内式部大輔塚原卜伝から一ッの太刀を伝授されていたと記しているので、伊勢北畠氏のところへ塚原卜伝がやって来て剣を教えていたのは事実のようです。『勢州軍記』では塚原卜伝が弟子に「奥義の一ッの太刀は具教一人にしか授けてないから具教に教えて貰え」と言っているのですが、小川新九郎の覚書では大河内式部大輔にも伝授されてます。特に一人にしか教えないという訳ではないようです。
刺客(出仕してきた家臣)に突然襲われた具教は最初の一撃を見事に防ぎますが、裏切った小姓によって刀の柄と鞘が縛られており刀を抜くことができませんでした。剣の達人とされる具教といえども武器無しではどうすることもできず、刺客により討ち取られてしまいました。具教は怒って死んだと云います。戦いに状況など選べはしないとはいえ、刀を抜くことも出来ずに殺害されるというのはちょっとかわいそうではあります。せめて刀を抜いて戦いたかったでしょうね。
具教は殺される直前まで三歳と当歳の息子二人と炬燵に入って遊んでいましたが、その子供も庭と雪隠でそれぞれ殺害されてしまいました。妻や女房たちは泣き叫び、走り逃げ、それを目にする人々は涙で袖を濡らしたと云います。(『勢州軍記』)
具教の首は駆けつけた北畠家芝山小次郎大宮多気らが奪い返し「せめて首は多気に葬ろう」多気へ向かいました。しかし多気も攻撃を受けており、具教の安否を確認するため多気から三瀬へ向かっていた芝山出羽守と野々口で出くわします。多気に葬ることができないとわかった芝山らは野々口に具教の首を埋め、小次郎らは伊勢国司家を再興するため興福寺東門院にいる具教の弟孝憲の元へ向かい、芝山出羽守は野々口に留まり追手と戦った後に滝へ身を投げたと伝わります。(『伊勢国司記略』)

信雄は軍勢を派遣して具教を滅ぼすのではなく刺客を差し向けて殺害しましたが、『勢州軍記』によると信雄の家臣が城で粛清計画について話していたのを下女に聞かれてしまったせいで慌てて刺客を放ったらしい。不用心すぎる。

実行犯になったんは滝川雄利、長野左京亮、軽野左京進(藤方具就の家臣で代理)の三人でした。奥山常陸も具教粛清を命じられましたが、主君を討つことを躊躇い、涙を押さえ仮病を理由に引き返しました。所領加増の朱印状は信雄に返して出家したとされます。藤方は怖気づいてしまい家臣を代理として派遣しています。『勢州軍記』では藤方の父が不義を咎めて井戸に身を投げたとされていますが、『勢州軍記』の藤方刑部少輔と藤方具就は同一人物と考えられていて具就の父とされる北畠国永は天正十二年までは生存しているので……まぁたぶん作られた話でしょう。あるいは別の誰かが身を投げていたのかもしれません。

北畠具教最期の地、三瀬館。鹿のふんがたくさんあった。

 

1576 公達生涯

具房弟の長野具藤(二男)と北畠親成(三男)、従兄弟で義弟の坂内顕昌(具教娘婿)も田丸城で殺害されました。信雄から「一緒に朝ごはん食べようぜ!(^o^)」と誘い出され、ほいほい出向いた所を殺されています。可哀想。
他にも田丸城下の宿所にいた大河内具良、坂内具信ら有力一族が討ち取られ、波瀬氏岩内氏らも滅ぼされてしまいます。
ちなみに信長が殺すよう命じたのは具教父子三人と坂内氏だけでしたが、信雄が領地欲しさに大河内具良も殺してしまったらしい(『勢州軍記』)。信長からして絶対殺す奴(具教父子、坂内父子)は決まっていたみたいなので、彼らは武田や義昭への内通に関与していたか、あるいは信雄にあからさまに反発していたのかもしれませんね。
また田丸具忠は他の一族が粛正されたと聞いて「次は自分じゃん…」と考えたのか岩出城に籠城してしまい、慌てて信雄が宥めています。朝起きたら親戚が皆殺しにされてるんだからそら無茶苦茶に恐かったでしょうよ。
一族で生き残ったのは木造氏、田丸氏、藤方氏(河方氏、牧氏、滝川雄利ら木造一族も生存)で、それ以外の北畠氏有力一族はほぼ断絶させられるという大事件となりました。……なったけど、同時代史料ではあまり触れられないので詳しいことがわからない。公家も僧侶も日記になにも書いていないのです。『年代和歌抄』では北畠国永が一年後の天正五年(1577)十一月二十五日に黄門一周忌(黄門は中納言唐名で具教のこと)としていくつか和歌を詠んでいますし、残党として反乱を起こす北畠具親、坂内亀寿らの史料が残っているので天正四年(1576)十一月二十五日に北畠一族の粛清事件があったのは間違いありません。でもなぜか当時の人らは誰もこの件について触れていない。なぜ…?

次々と一族が粛清されていった。


1576 粛正を免れる具房

南勢に粛清の嵐が吹き荒れる中、先代当主の北畠具房は殺されることなく助けられました。
別に具房が無能だから脅威ではなかったとかそんな理由ではなく、信雄の養父だったからという理由です。信雄は具教ではなく具房の養子ですからね。もしかしたら他にも何か理由があったのかもしれませんが、現状史料でわかるのは「形式上は義理の父親だから」です。養父殺しの悪評を恐れたのか、それとも信雄が個人的に助けてあげたかったのかはわかりません。
しかし北畠領にいることは許されず、具房は滝川一益の居城である伊勢長島城へと送られ幽閉されてしまいました。人質としてなのか、残党たちに反乱の旗頭として利用されることを恐れたのか不明です。具房本人の能力どうこう以前に血統とか立場を考えるとチャンスがあれば擁立されかねない危険人物です。田丸城での幽閉だと手引きさえあれば逃がすことも可能でしょうしね。
天正七年(1579)正月に北畠国永が「具房卿囚人と成給、河内(伊勢長島)といふ所へ越ましましすてに三年をへられて…」と記しています(『年代和歌抄』)。
そして天正八年(1580)睦月五日、具房は亡くなります。三十四歳でした。
『勢州軍記』によると死ぬ前には許されて信雅と改名した上で京都にいたとされていますが、これは定かではないことのようです。
具房が死んだことで具教の子供(男)は全員が亡くなり伊勢国司家の直系男子はいなくなりました。とはいえ信雄の正妻である具教娘(千代御前)が子を産めば女系で血が繋がるので「まぁいいか…」と考えている一族や家臣もいたかもしれませんね。具教の兄弟たちも生きてるし。「どっかから血は繋がるやろ」みたいな。想像ですけどね。

信雄と具房ってどのくらい交流があったんでしょう。養子と言っても信雄は船江や大河内にいて一緒に暮らしていたわけではないんですよね…。(絵の元ネタは木村政彦の本のやつ)

 

1576 粛清は既定方針ではなかった?

北畠一族の粛清に関しては藤田達生氏が「必ずしも既定方針だったとは思われない」とし「義昭の指令を受けて周辺諸大名と連携するのを阻止するためであった」と述べています(藤田達生「北畠氏と織豊政権」(『伊勢北畠氏と中世都市・多気吉川弘文館:二〇〇四)。

世の中の動きによって信長も具教も結果的にこの結末に流れ着いてしまっただけで、少なくとも「信長が和睦段階から考えていた陰謀だった」という訳ではありません。

天正四年になってから信長に「あー…これは先に始末しないとヤバいかもしれんわ」と思わせる何かが北畠具教らにあったことで決断が下されただけでしょう。

 

1576 津田一安の粛正

天正四年(1576)十二月、今度は信雄の家老だった津田一安が粛正されました。
傅役の沢井吉長も津田の縁戚ということで織田信忠のところへ転仕しています。
『勢州軍記』では滝川雄利、柘植保重が「津田が北畠一族を匿って面倒を見ている」と讒言したことで信雄が激怒して殺害されたとしています。
他にも津田が北畠家中で権力を持ちすぎた説なんかもありますし、甲斐武田氏と関係が深かったことなんかも挙げられますが津田粛正のはっきりとした原因は不明です(津田は甲斐武田氏に十一年仕えていて織田に出戻りして伊勢は行った後も武田との外交に携わっていました)。
ちなみに『勢州軍記』だと田丸城で日置大膳亮に殺されたことになっていますが、小川新九郎の覚書では新九郎の兄である小川長正が殺したことになっています。まぁ二人でやったのかもしれませんけども。

 

1576 複雑な北畠家

わずか1ヶ月の間に北畠具教や有力一族に加えて、後見してくれていた津田一安、沢井吉長までもを失った北畠信雄具教粛正に反発して離脱した家臣も少なくはありません。
もちろん信雄の権力は強まったでしょうが、領国支配に必要な多くの人材を失ったのもやはりまた事実。現代であろうと戦国時代であろうと、社会というのは様々なノウハウを持った人々によって支えられているのです。彼らが突然粛正でいなくなり、家中を離脱する家臣も現れ、複雑な心境で仕え続けている家臣もいる。譜代家臣と尾張出身家臣との関係もすんなりとはいかなかったでしょう。
これ以降は軋轢を孕んだ複雑な北畠家中を、十九歳の若い養子当主である信雄がほぼ独力でまとめねばならなくなりました。

 

その4へ続く

 

素人が書いてるものなので信じ過ぎないように!

ブログの内容はあくまで参考程度にね!

 

主な参考文献
三重県史』 通史編「中世」
『伊勢北畠氏と中世都市・多気
九鬼嘉隆―戦国最強の水軍大将―』
藤田達生編『伊勢国司北畠氏の研究』
大西源一『北畠氏の研究(復刊)』
池上裕子『織田信長
久野雅司『足利義昭織田信長
柴裕之編『織田氏一門』
谷口克広『織田信長合戦全録』
谷口克広『信長軍の司令官』
谷口克広『信長と消えた家臣たち』
谷口克広『信長と将軍義昭』
服部哲雄・芝田憲一『三重・国盗り物語
和田裕弘織田信長の家臣団』
和田裕弘織田信忠
和田裕弘天正伊賀の乱
勝山清次・飯田良一・上野秀治・西川洋・稲本紀昭・駒田利治編『新版県史 三重県の歴史』
赤坂恒明「天正四年の『堂上次第』について―特に滅亡前夜の北畠一門に関する記載を中心に―」
赤坂恒明「永禄六年の『補略(ぶりゃく)』について:戦国期の所謂公家大名(在国公家領主)に関する記載を中心に」
稲本紀昭「北畠国永『年代和歌抄』を読む」
小川雄「織田権力と北畠信雄
吉井功兒「伊勢北畠氏家督の消長」
柴裕之「織田信雄の改易と出家」

……など。
詳しくは参考文献リストや史料リストをどうぞ

dainagonnokura.hatenablog.jp

 

dainagonnokura.hatenablog.jp

 

戦国大名伊勢北畠氏の歴史 その2(1562~1569)

戦国大名伊勢北畠氏の歴史 その2

具房の家督継承(1562)から大河内合戦(1569)までになります。

ここからはちょっと詳しく書いていきます。
書状の内容とかはテキトーな意訳なので深く考えんといてください。

 

その1はこちら

dainagonnokura.hatenablog.jp

 

 

 

 

 


1562 具房家督を継ぐ

永禄五年(1562)、北畠具教は家督を嫡男の北畠具房に譲りました。この時十六歳。これ以降行政関係の文書は具房メインになっていきます。ただ具教も引退したわけではなく、具房と父子で二頭政治を行っています。
具房は五年前の永禄元年(1558)四月十九日には伊勢神宮元服をしていて、それより前の天文二十四年(1555)には従五位下侍従、弘治三年(1557)には左近衛少将にも任じられていました。

『勢州軍記』によると具房は「大腹御所」と敵に罵られるほどの肥満(デブ)だったとされます。しかし他の軍記物や系図なんかでは具房が病(所労)だったという記述が度々見られるので、肥満に関しても何かしら病気の影響だったのかもしれません。実際に若くして亡くなっています。(あくまで個人的な推測です)

また具房は生母と共に父具教から蔑ろにされていたとも伝わります(『勢州軍記』)。政治を行う中で具教が具房のことを蔑ろにしているケースは見当たりませんが、史料に見えない部分で家族間の確執があったりしたのかもしれませんね。
(ちなみに生母は天正二年時点で具教とは別居してるっぽいので……まぁ……仲悪いのかも……?)

 

1563 志摩出兵

永禄六年(1563)二月、北畠氏は志摩国へと出兵しました
どういう理由かは不明です。九鬼嘉隆が没落した抗争ではないかとも言われるのですが、九鬼氏に関連する同時代史料はないためはっきりとしません。九鬼氏が一時没落した戦いについては『勢州軍記』『寛政譜』の話を合わせると「九鬼嘉隆が掟に背いたため他の志摩七党が一味同心して九鬼氏を攻め、七党側が多気国司(北畠氏)に援兵を借りた」という感じになります。
二月二十一日に具房が山田御師の福嶋氏に対して「(嶋中申事について)すぐに進発しろ。油断しないように。」と命じています。
五月十三日には具教が志摩国磯部郷へ「花岡、和具、越賀ら敵地の面々が其の郷に出入りしていると聞いた。許容しない。」と伝達。
さらにこの後も戦いは十ヶ月以上に渡って続いていたらしく、閏十二月二十五日には沢房満が番替せず途中で帰ってしまったので具房が

「ちゃんと三十日間は城に在番しろ!」と怒っています。

なお沢房満は同じ時期に宇陀郡国人の秋山氏の知行を横領していて、早く返すよう具房に怒られています。問題児……。
この閏十二月以降の史料がないため、志摩攻めがどういう経過を辿ってどう終結したのかは定かではありません。ただ家督を継いだばかりの具房が軍事行動を指揮し、さらに家臣同士の横領を叱責するなど、きちんと仕事を果たしているのはわかります。

後世では無能、暗愚として扱われる具房ですが、同時代の史料からは特に無能さは感じられない。彼は普通に仕事をして、早くに引退して、そして若くして死んだ。そんな感じ。

 

1563~1564 長野氏と合戦

志摩国へ出兵していた永禄六年(1563)、北畠氏は同時に長野氏とも戦争しています。
永禄元年頃に従属したとされる長野氏でしたが、やっぱり不満があったようです。
九月十六日に伊勢国へやってきた公家の吉田兼右雲林院に着いたけど、国司(北畠氏)と長野が合戦していて窪田と安濃津の路次が通れなかった。」と記しています。(ちょうどこの時期に外宮の式年遷宮がありました。かなり久しぶりだったはず。)

……そしてこの戦争の最中、長野氏重臣分部左京亮(長野藤定の甥)織田信長に誼を通じ、信長から「あなたのことは見放さない」と返事を貰っている((永禄七年)十一月十三日付分部左京亮宛織田信長書状)。
織田信長は永禄十年(1567)に伊勢侵攻を開始し、永禄十一年(1568)に長野氏は織田方へ寝返ることになるのですが、その四年も前から既に長野氏重臣の分部氏と関係を持っていたのは興味深い事です。

永禄七年(1564)六月に勧修寺尹豊が長野氏と雲林院氏の和睦のため伊勢へ下向し、戦いは収まったらしい(『三重県史 通史編中世』)。
長野氏と雲林院氏の和睦ということは長野家中も内部分裂していたようです。
戦争の原因そのものは史料が無いのではっきりとしないものの、『三重県史』では「(具教次男の)具藤家督継承に絡んでの紛争」と推測されています。
そしてこれ以前からなのか、これ以降からなのかわからないのですが、永禄八年九月二十五日付の長野氏奉行人奉書では「本所様為御意被仰付…」となっていて、どうも長野領の統治に本所(北畠具房)の御意が必要な状態になっていたようです。長野家中からしたら「なんで俺らの国のことそっちに決めてもらわなあかんねん!」といった感じ。長野氏は養子を迎えて従属したとはいえ、北畠氏の家臣になったわけではないですからね。

志摩国では紛争が起こり、従属したはずの長野氏は織田信長接触している。

1565 永禄の変

永禄八年(1565)に将軍足利義輝が三好義継に殺害される事件が起こりました。
諸々から逃げることに成功した義輝弟の足利義昭は六角氏領国の近江矢島と落ち延びています。
しかし義昭を保護していた六角氏は翌永禄九年(1566)八月に反義昭方へ寝返ってしまい、六角氏謀叛を察知した足利義昭は近江矢島から若狭へと脱出する羽目になりました(『六角定頼』村井祐樹)。
北畠氏は六角氏の縁戚(具房生母の実家)ということもあり、次期将軍を巡る争いに関して微妙な立場になってしまいました。なんだかめんどくさいことになってきたぞ。

 

1567 織田氏の北伊勢侵攻

永禄十年(1567)四月、滝川一益が北伊勢へと侵攻を開始しました(大福田寺への禁制が残っている)。
織田信長による突然の北伊勢侵攻ですが、おそらく前年に六角氏が反義昭方へ転属したことが原因ではないかと思われます。
当時の北伊勢は六角氏の影響下にあり、桑名や梅戸氏、千種氏、神戸氏、関氏ら北勢の諸侍を従わせていました。上洛を目指す信長にとっては本国尾張の真横に敵対勢力がいる形になりますから放置することはできなかったのでしょう。
八月には織田信長が自ら出馬して北伊勢各地を放火。ちょうど連歌師の里村紹巴が対岸の尾張に滞在しており「西を見れハ長嶋おひおとされ、法か(放火)のひかりおひただし、如白日なれはおきゐて…」と記しています。
織田氏の北伊勢侵攻に関して、北畠氏が何か動きを見せたという史料は特にありません。というか六角氏も動いてない(動ける状態だったか知らんけど)。

 

1567 木造荘の直務問題

永禄十年(1567)七月、京都の公家久我氏から「お前の所にある木造庄から年貢が届かないから直接経営にしたいんだけど?」とキレられた。
久我氏は北畠氏と同じ村上源氏(というか向こうが本流)で、伊勢国一志郡にあった木造荘を所領としていました。昔と比べて額は減少したものの戦国時代になってもなんだかんだで北畠氏は年貢を送り続けていた……のですが、どうも木造荘代官を務めていた森岡弥六(山崎国通の被官)が二年前から横領して送っていなかったらしい。
具教・具房は一族の岩内鎮慶に対処を指示。山崎国通監督責任を問われて具房への取次役を解任され、森岡には「納めなかった分を二年に分けて納めるように」と命じました。その後も森岡弥六が管理していたようなので、引き続き木造荘の管理は北畠氏が務めていいことになったらしい。
北畠氏が年貢を納めて久我氏との関係を保っているのは、久我氏が官位の推挙権を持っていたからではないかと考えられています。北畠一族の官位昇進を久我氏に助けて貰えるのです。(この時は岩内鎮慶の子息国茂が任官した)。

北畠氏は官位昇進できる!

久我氏は年貢を納めてもらえる!(全額送るとは言っていない)

WIN-WINの関係ですね!!!全額横領されるより全然マシ!!!

(……ちなみに北畠氏は前年から射和白粉料の公用も納めていない)

 

1567 謎の動乱

永禄十年(1567)、北畠氏領国でいまいちよくわからない謎の出来事が多発している。

●六月六日
来迎寺に出された禁制
来迎寺は細汲(細頸、松ヶ島)にあった寺なのだけど、がっつり北畠氏領国内にありました。
なぜかここに「軍勢甲乙人乱入・宿取事…」と禁制が残っている。なんでそんなところへこの時期に禁制が?
しかもこの奉行人奉書、教兼(具教奉行人)が袖判を据え、日下に房兼(具房奉行人)が署名と花押を据えるというイレギュラーな形で出されています。こうした形で出された文書は他にないので、いまいちどういう理由でそうなっているのかわかっていません。
(永禄十年六月六日付来迎寺宛房兼・教兼奉行人禁制)

●六月九日
沢房満と不慮之粉
北畠具教が沢源五郎(房満)宛に「就今度不慮之粉、雖本所不審之儀候」と送っている。
不慮の紛に関する具体的なことが書いてないので何かわからないが、沢房満について具房が不審に思うような出来事があったらしい。
(永禄九年六月九日付沢源五郎宛北畠具教書状)

●六月二十五日・七月朔日
長野藤定の感状

藤定!生きとったんかワレ!!!!!

『勢州軍記』だと具藤の養子入り後に死んだとされる長野藤定。どうも生きていたらしく分部四郎二郎に感状を出しています。
六月二十五日に葉野表合戦……と葉野で合戦したらしい。葉野は羽野のこと……?だとするとちょうど北畠氏と長野氏の境目にあたるので、合戦の相手は北畠氏になる?ちょっとわからない。
(永禄十年七月朔日付分部四郎次郎宛長野藤定書状)

勢州軍記だと長野氏の織田方への転属は永禄十一年(1568)だけど、この書状が本物なら永禄十年には戦いが始まっていたことになるのですが……うーん……。北側で織田方と戦った可能性もあるしわからんね。

●十月二日
物言共にて取乱
岩内鎮慶が久我氏に送った書状に出てくる「不慮ニ折節当国物言共にて取乱候…」。
領国で問題が起きていたようですが……例によって具体的なことを書いてないので、何が起きていたのかわからない。
((永禄十年)十月二日付本庄兵部丞宛岩内鎮慶書状)

 

北畠領国に何かが起こっていた。でもなんなのかよくわからん。
長野氏と戦争が始まっているようにも見えるが、永禄十年十一月十三日付の勧修寺家家司豊家書状では栗真荘の公用について「国が錯乱状態だからって近年納めてくれなかったけど、この頃は静謐だから納めてほしい」といった感じのことを書いている。栗真荘は白子から栗真にあった広大な荘園で長野氏が代官職を務めていた。「静謐」と言っているからこの地域が戦争状態という事は無いように思える。

いやでも8月には信長が放火しまくってたのに静謐扱いだから7月だけ争ってたのならわからないかも……。
四月から北伊勢が滝川一益の侵攻を受けているのでその影響で何かが起こったのか、あるいはこの年に沢氏が宇陀郡へ復帰したとされるのでその争いか…。

わからん。おーん。

なんしとったんやお前ら……。

 

1567 宇陀郡の奪回

永禄十年(1567)頃、北畠氏が大和国宇陀郡を奪回。沢氏が沢城へ復帰したとされます。
三好氏の内紛によって松永久秀が勢力を減退させたことがきっかけとみられ、沢城に配されていた高山飛騨守は沢城から没落しました。
フロイス書簡』は「敵の大軍が沢城を囲み、力攻めでは落ちなかったが兵粮、火薬が欠乏したため城を捨てた」としています。敵の大軍というのが誰の軍勢なのかは書かれていないので不明。
……もしかして永禄十年六月の沢房満宛具教御教書に「就今度不慮之粉、雖本所不審之儀候」とあるのはこうした動きに関係にあるものなのかもしれません。詳しいことはわからないですが。

 

1568 信長の第二次伊勢侵攻と長野氏の寝返り

永禄十一年(1568)、この年の冬、長野氏が織田方へと寝返りました。
養子としていた長野具藤(具教次男)を追放して、新たに織田信長の弟である三十郎信良(信兼・信包)を養子・新当主として迎えています。よほど北畠氏とは一緒になりたくなかったらしい。
これに関連するとみられる史料が滝川一益が長野家中十名に宛てた書状で「御方様(信良?)の迎え」についてと「信長の北伊勢出陣が来二十九日である」と伝えています。((永禄十一年二月?)二十五日付滝川一益書状)
『勢州軍記』によるとこの年の二月に信長が伊勢へ侵攻し、河曲郡神戸氏を下して三男である三七信孝を養子に入れています。神戸氏が織田方に降ったことで六角承偵は激怒し神戸氏の人質を塩攻めにしました。この人質は円貞房という僧で神戸楽三(具盛)の末子だったという。神戸楽三は北畠晴具の弟なので、具教からするとこの塩攻めにされた人質は従兄弟ということになります。ちなみに円貞房は狂人となって神戸へ帰ってきたので死んではないらしい。いや帰されても……狂人の面倒見るの相当きついでしょ……。
鈴鹿郡関一党は本家以外は織田方に降伏しましたが、本家の関盛信は六角氏に義理立てして敵対しています(後に降伏)。
『勢州軍記』ではその後に織田勢が長野領へ攻め寄せたものの攻め破ることができず、そうしていたところに長野重臣の分部左京亮らが織田方へ寝返り、長野具藤を追放して信良を養子に迎え入れたとしています。
……ただ滝川一益の書状を見ると「信長出陣前に重臣らが約束を取り付けている」ように見えるのでどこまで事実なのかはよくわからないです。外部から見るとそう見えたということかもしれませんが。

個人的には第二次伊勢侵攻は長野氏に弟信良を届けるところまで含めてのもののように思えるのですが……うーん。

同時代史料も少ないのでわからんことが多い!

 

1568 織田氏・長野氏との開戦

永禄十一年(1568)、第二次伊勢侵攻を終えた信長は弟で長野氏を継いだ信良を伊勢上野城へ、津田一安(掃部助)を安濃津城に配置して帰国。南方への押さえとして配置された津田一安は長野信良と共に北畠氏の今徳山城、小森上野城を攻撃。北畠氏もこれらの城に援軍を送り、数度に渡り攻防が繰り広げられることになりました(『勢州軍記』)。

織田氏と北畠氏の戦争は、長野氏の逆心(転属)によって発生しています。

(「然工藤家(長野氏)依逆心。今徳奥山方小森上野藤方家與織田掃部助(津田一安)挑合戦。故国司勢北方致戦数度也」『勢州軍記』)

……あと六角氏が反義昭方になった影響で北畠も立ち位置がおそらくそっち寄りになっていること、それと松永久秀大和国宇陀郡で争ったことあたりもありますね。探せばまだあるのかも?
織田と戦争になる理由はいくつか存在するので、別に具教や具房の能力や判断による問題ではありません。長野氏に裏切られた北畠氏は長野氏を攻めなければならないし、織田氏は自分を頼ってきた長野氏を助けないといけない。義昭の味方にもならないなら信長としては、やっぱり北畠には痛い目を見てもらうしかない。どうしようもないね!
(そもそも境目の国衆が転属して戦争になるのはよくあることでは)

永禄十一年(1568)十一月には沢氏が人夫改めを実施しています。本格的な戦争に備えての動員準備でしょうか?(永禄十一年十一月十一日杉左衛門大夫請文など多数)

『勢州軍記』では信長侵攻に備えて細頸(細汲)に御殿を築いて日置大膳亮が入り、具教や具房は多気から大河内城へと入ったとしています。
さすがに多気では山奥すぎるので、平野部に近い大河内城が拠点となったようです。大河内城は有力一族大河内氏の本拠だったのですが、大河内氏は大淀城(伊勢湾の近く)へと移ることになったらしい。
雲出川以南の各城にも守備する武将たちが配置されています。援軍にやってくるであろう織田信長の侵攻に備えて、北畠氏は着々と防衛体制を整えていきました。
…しかし身構えている時には死神は来ないもので、信長の侵攻はしばらく行われませんでした。
それもそのはず、この永禄十一年夏は信長が足利義昭を奉じて上洛戦を実施した年であり、伊勢方面に構っているような暇などありませんでした。

ドラマとかでもだいたい伊勢攻めはすっ飛ばされるもんね!

信長と対立する理由は結構あった北畠氏。揉め事が多い……



1569 隠謀あらわれ

永禄十二年(一五六九)、この年ついに織田信長の北畠領侵攻が行われました。
『年代和歌抄』では「正月九日に隠謀があらわれて郷々が悉く焼き払われた」としています。この隠謀によって日置大膳亮が在城していた細頸城(細汲)を焼いて大河内城まで撤退。そしてこの隠謀に乗じて長野信良(信包)が北畠領の最前線、小森上野城への攻撃を再開。これを北畠氏一族の藤方具就(刑部少輔)が迎え撃っています。

具房は小森上野城に増援を向かわせたようですが、正月二十三日付の奉行人奉書では佐藤氏(北畠家臣)に対して「小森上野城が開陣していた場合は家城城へ入れ」と命じています。落ちていても不思議ではない状況だったのでしょう。
また二十八日までには曽原城でも籠城戦が開始されています。


三月二十日には長野勢は小森上野城の周囲に付城を築いて包囲を強化。同月付安堵状では長野信良分部光嘉へ「忠節無比御高名」と武功を賞しています。
この時、北畠国永は息子とされる藤方具就が守る小森上野城へと見廻りにやって来ていましたが、付城での包囲が進んだために二十三日夜には密かに城を退去しました(『年代和歌抄』)。小森上野城の置かれた状況はなかなかに苦しいものだったので、おそらく父子とも「これが最後かも…」と思って会っていたんじゃないでしょうか。

五月一日、具房は再び佐藤氏に対して奉書を出しました。今度は天花寺城への入城を命じたようです。小森上野城に行けと言われたり家城城に行けと言われたり天花寺城へ行けと言われたり、戦場の武士たちも大変です。

 

1569 長野勢の総攻撃と木造具政の離反

五月十二日、長野信良は数千騎を率いて小森上野城への総攻撃を実施しました。堀を隔てて戦うも城を破る事はできず長野勢が「百人討れて引き退く」大敗を喫し、北畠方が勝利しています。(『年代和歌抄』)

しかしこの五月に有力一族の木造具政が北畠氏を離反して織田方へと寝返りました。
木造具政は北畠晴具の次男で具教の八歳下の弟にあたり木造氏に養子入りして当主となっていましたが、北畠氏の命運を賭けた戦いが繰り広げられる中で容赦なく実兄を裏切りました。
『木造記』では多気の祭りで一族内の序列をめぐって具教と揉めたことを原因としています。木造御所は一族の頭であるから国司の馬に続くのが通例であったのに、具教は一族三大将(大河内、坂内、田丸)を先にして木造をその後としてしまいました。具政は兄具教を非難しましたが、序列が戻されることはなく具政は具教に対して不満を募らせました。そこへ木造一族の源城院主玄(滝川雄利)が織田方へとまず内通し、重臣の柘植保重と相談したうえで具教へ不満を抱く木造具政に寝返りを勧めたました。
『木造記』は木造氏を主役とした軍記物なので事実なのかはなんとも言えないですが、伝わっている離反の理由はとりあえずそうなっています。

弟の裏切りに北畠具教は激怒。人質としていた柘植保重の娘を木造城対岸の雲出川で磔とし、そのまま木造城を攻撃しました。(木造城代は弘治二年段階では沢氏であったはずですが、この戦いでは木造具政が守将として入っている。いつ頃木造氏が復帰したのかはわからない)
木造城攻めの軍勢を率いたのは本田左京亮大多和兵部少輔沢房満秋山右近将監(『木造記』)。北畠勢の猛攻に対して木造勢は頑強に抵抗。城を落とすことができないまま時が過ぎていきます。
『木造記』『足利季世記』ではこの時に津田一安滝川一益関一党長野氏が木造城に後詰したとしています。もしかすると五月十二日の小森上野城に対する大規模な攻撃はこの木造氏離叛に連動したものかもしれませんね。
『木造記』では「小森上野城の藤方刑部少輔に北側から木造城を攻めさせようぜ!」と木造城を攻めてる北畠勢は考えたらしいが藤方は出陣しなかったという。そりゃそうだろ。


1569 各所での戦闘

六月(七月?)には二見郷が蜂起野呂越前守が討伐のため出陣し、塩合川・二見の戦いで二見勢を破っています。
しかし山田三方が突如として寝返り、野呂勢の背後を急襲しました。挟み撃ちにされた野呂勢は大敗。野呂越前守は討死し、野呂一族も多くの死者を出したと伝わります。
『年代和歌抄』は「二見破却のために、本所(具房)玉丸(田丸)にいたり馬を出され、七月の末一戦にやふれ…」と北畠具房が田丸、二見方面へ出陣したことを記しています。
この二見の一揆には九鬼氏など海上勢力の関与もあったとも考えられています。九鬼嘉隆は志摩を追われていましたが、信長の支援により復帰。九鬼勢は海上から北畠氏への攻撃を繰り返していたとされ、原城天花寺勢、船江城の本田勢が上陸してきた九鬼勢を夜襲で撃退したとも伝わり、九月には大淀城にも攻め寄せたが城番であった鈴木、安西、中西らが防いだと伝わります。(『勢州軍記』『三国地志』)
ただ「麻生浦旧記録」だと永禄十一年に「九鬼嘉隆が北畠氏の支援を得て志摩の侍を降伏させようとしたが浦氏が従わなかったので攻めた」となっているので、織田に従っていたという勢州軍記の話と矛盾します。どっちなんでしょうね。
また七月二十八日に伊賀国の仁木氏が滝川一益を通じて織田方に接近。信長も忠節を尽くせば粗略にしないと伝えています。

木造氏、志摩国、二見、山田……切り崩されつつある領国を北畠氏は必死に防衛し続けました。正月に隠謀で自焼した細頸城や離反した木造氏の城を除けば、城はまだ一つも落ちていません。
しかしこの各所での寝返り、特に木造氏の離叛は織田氏にとっては大きな好機でした。この機を逃さなかった織田信長は、ついに自ら出馬し南勢攻略へと移ります。


1569 信長出陣

永禄十二年(1569)八月二十日、いよいよ織田信長が岐阜を出陣しました。

本国である濃尾両国に加えて南近江や北伊勢からも動員された信長本隊の大軍勢は兵力七万とも十万とも言われます。
さすがに誇張があると思われる数字のため、大西源一氏は「約五万位」ではないかと推測しています(『北畠氏の研究』)。いずれにせよ北畠軍の数倍の兵力を擁する大軍であったことは間違いなく、戦力差は圧倒的でした。
織田方には相当の自信があったとみられ、『三重県史』では「楽観的気分がただよっていた」のではないかと推測しています。朝山日乗が毛利元就へ宛てた書状では「十日以内に平定できる」と豪語しています。(死ぬほど舐められているな北畠…)

(「信長者三河遠江尾張・美濃・江州・北伊勢之衆十万計にて国司へ被取懸候。十日之内ニ一国平均たる由候間。」『福井県史資料編2』)

この信長侵攻に対する北畠氏の防衛体制はこんな感じだったとされています(『勢州軍記』)

小森上野城…藤方具就(刑部少輔)
阿坂城………大宮入道含仁斎
今徳山城……奥山常陸
船江城………本田右衛門尉(本田小次郎親康の叔父。小次郎は左京亮?)
八田城………大多和兵部少輔
原城………天花寺小次郎
岩内城………岩内御所(岩内鎮慶?国茂?)
大河内城……北畠具教、具房父子。

具教たちが大河内城へ移った時期はわかっていませんが、永禄十二年の夏頃と推測されています。一時的に籠るだけであったのか、以降も本家の城とするつもりであったのかは不明。でも数年後には信雄が入っているので本家で使うつもりだったのかも。
全体の兵力として勢州軍記は「国司勢一万六千」としていますが、これはこの戦いの兵力ではなく全盛期のものでしょう。しかもたぶん盛ってる。
大西源一氏は総勢を一万、大河内籠城兵力は七~八千人と推定しています。(『北畠氏の研究』)。

なお大河内合戦については史料が少なく『信長公記』や『勢州軍記』などの記述に頼る部分が大きいです。そのため経過等がどの程度までが事実かは不明です。

 

岐阜出陣(8月20日)→桑名(8月21日)→白子(8月22日)→木造(8月23日)

1569 織田信長の南勢侵入

桑名で諸国の軍勢と合流した織田勢は、白子を経て南勢へと侵入しました。
この時、小森上野城藤方具就、今徳山城の奥山常陸の二人は迫る織田の大軍に対して

「義のために討死を覚悟で一戦を遂げよう」

と考えていたようです(『勢州軍記』)。


しかし信長は両城を攻めることなく通過して木造城へと入りました。
一応、小森上野城には滝川一益と関一党、今徳山城には長野信良、津田一安が押さえとして置かれたようです(滝川、長野勢はその後に大河内城へ来ている)。
八月二十三日に木造城へ入城した信長は雨の為しばらく動けず、三日後の八月二十六日に木造を出陣します。本来であれば平野部の参宮街道を通って船江城から大河内城へと進むのですが、木造城での軍議で乙部兵庫頭が「船江城には精鋭が配置されており容易には落とせない」と進言したため、信長は山際を通って大河内城へと進軍するルートをとっています。
織田勢はまず八田城攻めへと向かいますが、濃霧に包まれていたため攻撃を断念。結局、八田城は放置して南下。翌二十七日には阿坂城へと攻め寄せました
阿坂城は織田勢から和睦(降伏)を申し入れられましたが、城将である大宮含仁斎がこれを跳ね除けています。信長はその南にある岩内城の岩内氏へも降伏を勧告しましたが、岩内御所(鎮慶か国茂)からも「それは国司次第だ」と突っ返されています。
小森上野城の藤方具就、今徳山城の奥山常陸介、そしてこの阿坂城の大宮含仁斎、岩内城の岩内氏。数万の大軍相手にも北畠家臣らは怯まずに徹底抗戦の構えを見せました。

織田勢は阿坂城攻めを決定し阿坂城を攻撃。先陣は木下秀吉(豊臣秀吉)であったとされ、大力で弓の名手であった大宮大之丞が秀吉に矢を命中させるなど城方は奮戦しています。
しかし内部で寝返る者が現れて火薬に水を入れたために継戦不能となり、大宮含仁斎は降伏して城を明け渡す羽目になってしまいました。
またこの戦いの前夜に船江城の本田衆が、信長本隊に合流しようとした織田勢の先陣部隊に夜襲を仕掛け勝利を得て武名を高めたと云われます。
しかし翌日にも夜襲をかけたところ織田勢に迎え撃たれて敗退してしまいました。連日の夜襲はさすがに調子に乗りすぎでしょ。(天花寺衆も夜襲を仕掛けたとされる)

阿坂城方面。山頂の本丸が陥落したのはおそらく北畠側の支城から確認できたはず。


1569 大河内城包囲

永禄十二年(1569)八月二十八日、信長率いる織田の大軍が北畠具教、具房父子の籠る大河内城を包囲しました。
織田勢は城の周囲に鹿垣(陣地)を築き、東西南北から城方に圧迫を加えています。『信長公記』によるも包囲した織田方武将は
東…柴田勝家森可成佐々成政、不破光治
西…佐久間信盛、木下秀吉、氏家卜全安藤守就
南…長野信良、滝川一益稲葉一鉄池田恒興丹羽長秀蒲生賢秀
北…斎藤利治坂井政尚、蜂屋頼隆、磯野員昌
錚々たる面々。まるでオールスターゲーム
磯野員昌は浅井氏の援軍でしょうか。他にも南近江から蒲生・永原・後藤・青地・山岡らが参陣しているようです。

対する北畠氏の籠城衆は…
一族…長野具藤(二郎・長野御所)、大河内具良(大河内御所)、坂内具信(坂内御所)、田丸具忠(田丸御所)、森本飛騨守、方穂民部少輔など。
重臣…鳥屋尾満栄、水谷刑部少輔、安保若狭守・大蔵少輔、朴木隼人正、家城主水佑、日置大膳亮、野呂左近将監、長野左京亮、山崎国通、星合左衛門尉、真柄宮内丞、今川左馬允など。
こちらも主だった一族・重臣・侍大将が揃っています。
ただ木造城を攻めていた本田左京亮、沢房満、秋山右近将監らが大河内城にはいません。大多和兵部少輔と共に八田城に籠ったでしょうか……。沢、秋山がいるあたり主力部隊の一つように見えるのですが、彼らがどこにいたのかはよくわかりません。まぁ支城のどこかにはいたでしょう。

大河内城跡。40mくらいの山。

想像で描いたイラストなので実際とはおそらく違うでしょうけど、なんとなくのイメージに。

 

信長公記』の配置はこんな感じ。『勢州軍記』となんか違う気がするが……。

 

1569 大河内合戦

緒戦は包囲の初日である二十八日夜には行われました。池田恒興勢らが広坂口・市場口へと攻め寄せ日置大膳亮ら防戦。槍の名手とされる家城主水佑が抜きんでた手柄を立て、敵を追い返しています(『勢州軍記』)。

翌二十九日朝には織田勢の総攻撃が実施されましたが、城は落ちませんでした。
この戦いは『勢州軍記』に「敵味方の弓鉄砲が疾風雷雨」のようだったと記される激しい攻防で、特に織田方が大きな被害を出したとされます。
『多門院日記』はこの合戦での織田勢について「人数数多損」と記しています。また後々には九州の大友氏のもとへも「上総(信長)人数千四五百ほと討死候」と伝わっており、織田方がかなり苦戦していると噂になっていたようです。
九月六日には『多聞院日記』が「松永久秀が伊勢へ見舞いに行こうとしたが、伊賀惣国が一揆を起こすかもしれないと噂が立ち見舞いを取り止めた」と記しています。伊賀には北畠氏に従う勢力も存在していて、また伊賀、甲賀へは没落した六角氏もいまだに勢力を持っていました。彼らが信長の伊勢侵攻に乗じて動いていたのかもしれませんね。

九月八日には稲葉一鉄池田恒興丹羽長秀ら織田勢が大河内城の西搦手口から夜襲を仕掛けました。
しかし雨が降り出したことで鉄砲が使えず馬廻朝日孫八郎波多野弥三郎など侍二十余人が討死する被害を蒙る羽目になっています(『信長公記』)。
『勢州軍記』では何故か九月下旬となっているのですが、おそらく八日が正しいでしょう。織田勢が南側の搦手から二の丸へと攻勢をかけ、城への侵入を許すものの日置大膳亮家城主水佑長野左京亮安保大蔵少輔らが防戦して勝利したとしています(『勢州軍記』)。
搦手が西と南で違ってますがこの戦いのことでしょう。

九月上旬には包囲の外から北畠方の船江衆が夜襲をかけ、織田方の氏家勢が被害を出しています(『勢州軍記』)。
九月九日には滝川一益の軍勢が北畠氏本拠の多気へと侵攻国司御殿や城下を焼き払われてしまいました(『信長公記』)。
その後、今度は滝川一益が魔虫谷から大河内城へと攻め上がりましたが、城から弓鉄砲が隙間なく撃ち込まれ滝川勢は悉く打ち殺されてしまい人馬が谷を埋めたと云う(『勢州軍記』)。
『勢州軍記』はこれを十月上旬としていますが、どう考えてもその前なので日付は不明です。

なおこの戦いの時に具房が「大腹御所の餅喰らいwww」と織田兵にディスられています(『勢州軍記』)。織田兵は信長本陣桂瀬山の松の木から2キロ先の大河内城までその絶叫を轟かせたらしく、それを聞いた城方は「あいつ射殺そうぜ!」となりました。そして弓の名手であった秋山氏(北畠重臣)家臣の諸木野弥三郎が大弓で見事にその織田兵を射抜き、見物していた敵味方とも大いに感動したという。

桂瀬山は遠すぎるからさすがに作り話っぽい。でも、もしかしたら城の近くでそういうような出来事があったのかもしれない。その辺を想像するのも歴史の楽しみよね。

 

搦め手から二の丸へ向かう道。八日の戦いはこの辺が主戦場?

まむし谷(魔虫谷)。本丸と西の丸の間にある。滝川一益勢がここを攻めあがったが敗退した。


1569 和睦へ

城の包囲から一月が経過しましたが、織田信長は大河内城を落とせずにいました。
調略を仕掛けるも、応じた野呂左近将監は露見して討ち取られてしまい失敗に終わっています。
織田方の当初の楽観的な想定とは裏腹に、短期での決着に暗雲が立ち込めていました。
北畠氏は正月の開戦段階から鳥屋尾満栄が長期戦を見越して兵粮を集めており(『勢州軍記』)、大河内城も他の支城も頑強に持ち堪えています
『木造記』は「敵城方は討死少なく、寄手は屈強の諸士大半討たれければ、大軍なりといへとも信長公も攻あぐみ給ひける」と記しています(木造記は勢州軍記が参考にした書の一つとされ、勢州軍記と違って木造氏側の視点で書かれている。そのため大河内城を敵城方と呼んでいる)。
一方の織田方は敵地へ大軍で侵攻したものの城を落とせる気配はなく、長期戦の気配が漂っていました。大軍を維持するための兵粮の確保も苦しかったでしょう。しかも後方の支城は阿坂城以外ほぼ放置したため軒並み健在です。簡単に撤退できるとは思えません。
城攻め開始から約一ヶ月、ついに両者は和睦へと至りました。交渉開始から成立までどういった経緯で行われたか詳しくはわかりません。
『具教家譜』では十月中旬に和睦へ向けた動きが始まり十月二十七日に休戦したとしているのですが、『多聞院日記』は十月三日に「勢州国司之城」が落ちたとしています。
信長公記』も十月四日に具教父子が大河内城を出て笠木へと移っているので、やはり十月三日までには和睦の話はまとまっています。『具教家譜』の月日は間違いでしょう。
『足利季世記』では信長から「和睦して公方様(義昭)へ出仕した方が北畠家への覚えも目出度くなるでしょう」と呼びかけ、具教が「最近の信長の威勢は凄まじく、一旦勝って敵を追い出したとしても、とても敵わず当家は滅亡するだろう。またこうしていつまで籠城していられるかもわからない。和睦した方がいい(意訳)」と一同に伝えて籠城衆は和睦に決したと云います。
なお、この和睦、どちらから申し出たのかが史料によって異ります。
信長公記』は「北畠側が兵粮不足となり和睦を願った」としていますが、『勢州軍記』では兵粮は十分あり「織田側が和睦を申し入れてきた」と内容が矛盾しているのです。
信長公記』と『勢州軍記』では信憑性の軍配は『信長公記』に上がると思いますが、当時の史料からは「信長苦戦」の様子が伺われ、『細川両家記』でも「国司方勝利」によって和睦となったとしています。現在の研究では信長側が和睦を申し入れたのでは?とされることが多いです。
一応、合戦終了についての史料をいくつか載せておきます。

『多聞院日記』
「去三日ニ勢州国司ノ城落了之」

『神宮年代記抄河崎』
伊勢国司城大河内へ信長数万騎ニテセムル、終不落、后ニ曖ニテ引トル」

大友宗麟書状(十一月五日付臼杵越中守宛)
国司手前能候て、上総人数千四五百ほと討死候、於其上通路取切候之条、織田頻懇望之由候…」

『細川両家記』
国司方勝利を得て曖に成、同十月十二日信長は開陳の由申候。人数過分死由候」

北畠側が勝利しているように見えなくもない。特に大友宗麟の書状を見ると、織田側が懇望して和睦したように見えます。あくまで九州にはそう伝わっていたということですが。

大河内合戦のまとめ図



 

1569 和睦の条件

この和睦での条件は以下のようなものでした。
・信長の次男茶筅(信雄)が北畠氏に養子入りする。
・具教、具房は大河内城から退去する。
・田丸城など周辺の諸城を破却する。
・関所の撤廃(和睦の条件なのか?)

 

・信長次男の養子入り
信長次男の茶筅(信雄)は永禄元年(1558)生まれの十二歳で、母は嫡男信忠と同じく生駒氏の娘であるとされます。
北畠氏はこの茶筅を北畠具教の娘(千代御前、雪姫)と婚約の上、国司家の養子として迎えることとなりました。千代御前は兄具房の養女となり、茶筅は具房の養子となる形です。
具房はまだ二十三歳。実子がいなかったとはいえ今後出来る可能性は十分にあったはずですが、北畠氏はここで縁もゆかりもない織田氏から養子を迎える決断をしています。
『足利季世記』では具房について「病気にて若君もなければ信長次男を養子に参らすべし」と病気で子供ができなかったとしています。かなりの肥満であったことや、実際に三十四歳と若くして亡くなっていることを考えると、なにかしらの病気を患っていてもおかしくはないのですが、後世に書かれたものなので病気説が事実かは不明です。
また『勢州軍記』には「是有取人質」とあり、茶筅は「人質」でもある北畠家中は見ていたようです。『寛永譜(星合氏)』でも「茶筅御曹司を質となしこれをつかはさるべし(中略)信長疎意あるべからさるのよし起請文をもって盟べき…」となっていて扱いはやはり人質です。大友宗麟書状にあるように「織田側が頻りに懇望して和睦した」のなら織田側から出した人質というのも普通にあり得そうです。
とはいえ『信長公記』に茶筅家督を譲り申さる御堅約にて」とあるように、茶筅家督を継承していくことを少なくとも信長の方は期待していたようです。実際に後々当主となっているのですが、これが最初からの約束だったのか、それとも結果的にそうなっただけなのかは不明です。
しかしこの和睦の直後、十月十一日に信長は上洛したものの、十七日には突然帰国してしまっています。「上意と競り合い」帰国したと『多聞院日記』は記しています。「上意」は将軍足利義昭とみられ、北畠攻めの直後であることからこの戦いや和睦に関して義昭側になにかしら不満があり、信長と一時的に仲違いをしてしまったのではないかとも考えられています。
久野雅司氏は信雄の養子入りが義昭(幕府)にとって「家格秩序を乱すことであるため容認し難く、これによって齟齬が生じた可能性がある」と指摘しています。(『足利義昭織田信長』久野雅司)。
確かに義昭が再建しようとする室町幕府の秩序を無視しているように見えます。義昭と信長が喧嘩した原因が北畠氏への養子入りについてならば、幕府にとっても大事な話を信長が勝手に進めた(?)ことに義昭は全然納得してなかったのかも?

 

・大河内城からの退去
国司家父子の退去はスムーズに行われ、具教らは大河内城を出て坂内氏の笠木館へと移っています。笠木館へ移ったのは多気が焼き払われた影響でしょうか?

 

・諸城の破却。
城の破却については田丸城、船江城などが対象となったようです。和睦により城や砦が破却されるのは当時一般的だったので特におかしな条件ではありません。
でもこの破却を原因とする反乱が曽原城で起こっているので、必ずしも順調ではなく家臣たちからは反発があったらしい。

 

・関所撤廃
信長公記』には和睦後、信長が伊勢の関所撤廃を命じたことが記されています。
これが和睦の条件であったとされることもあるが、条件として挙げていない研究者の方もいた。よくわからん。私は和睦の条件ではなかったと思っていますが、一応書いておきます。
そもそも関所が実際に開かれたのかというと……どうも本当に開かれたらしい。
『多聞院日記』に「元日ヨリ伊勢ノ関悉以上了。去年信長錯乱ノ立願。且廿一ヶ年可上云々」とある。戦いの翌年、永禄十三年(1570)の年明けから実現されています。
おそらく信長が大河内合戦の直後に伊勢神宮へ参詣した際に、なにかしらの立願を行いそのために関所を開けたのでしょう。関所は北畠氏が管理しているのでOKはもらってたはず。関所が開けられれば神宮への参詣も増え、神宮にとっては都合がよい。北畠氏も病気平癒などで神宮への立願の際に関所を開けることがありました。
しかし廿一ヶ年(二十年)も開けていたかというと、そんなわけはありません。天正三年(1575)に薩摩の島津家久伊勢神宮へ参詣しましたが、その時には伊勢国内に関所があったと日記に書き残しています。小倭郷には五つ、駒口や長野、田尻などにも関所があり、櫛田川や宮川の橋賃も徴収されていたようです。
つまり和睦から六年後には関所は復活している。
どういう理由で復活したのかは不明。そもそも信長が勝手に「二十年!」って言ってただけかもしれませんが……。
北畠氏は関所の銭を知行として家臣に与えているので、そのあたりもずっと開けたままというのは厳しかったのかもしれません。

 

1569 戦後

大河内合戦は永禄十二年(1569)十月三日までに和睦が成立。翌四日には北畠具教、具房父子が大河内城から笠木館へと退去しました。具教、具房父子はしばらくして養子に迎えた信長次男の茶筅と船江城で対面元服までは船江の薬師寺に置かれました。…なぜ多気ではなく船江の寺に置いたままなのかがよくわからんですが。他家でも養子の扱いってこういうものなんでしょうか?

茶筅には織田一族の津田一安が後見として付属。津田一安は戦後処理では滝川一益と共に大河内城接収を担当。以降は茶筅の補弼として活動しています。
『勢州軍記』には名前がありませんが、沢井吉長茶筅の傅役(教育係・世話役)として同行。信憑性はなんとも言えないですが、沢井は父と合わせて四千四百貫を知行し、さらに北畠具教より伊勢に一千貫を与えられたとされています(『木曽川町史』)。
また『武功夜話』では小坂宗吉(孫九郎・雄吉)、森正成(甚之丞)も傅役として同行したとしています。史料自体の信憑性は怪しいものの、森清十郎(森甚之丞子息)は他の軍記物で信雄家臣として活動しており、小坂孫九郎は小川新九郎覚書でも存在が確認できるので概ね事実なのかもしれません。
また木造氏から木造一族の源城院主玄(滝川雄利)重臣柘植保重が付き従いました。両者は木造氏の織田方への寝返りを主導した者で、木造家中から引き立てられ茶筅重臣として仕えることになっています。
ただ『勢州軍記』では源浄院主玄は滝川一益のところにしばらくいたとされており、そこで還俗し滝川姓を貰って滝川友足と名乗っています(後に一盛、勝雅、雄親、雅利、雄利とも名乗っている。以後は雄利で統一します)。両者はすぐに茶筅の元へやってきたわけではないのかもしれませんね。『寛永譜(星合氏)』でも滝川雄利と柘植保重は信雄が家督を継いだ時に「赦免されて家僕となった」と書かれています。天正三年頃までは滝川一益に仕えていたのかもしれませんね。
他にも生駒半左衛門尉、林豊前守、足助十兵衛尉、小崎新四郎、安居将監、林与五郎、天野雄光(佐左衛門尉)、池尻平左衛門尉、津川玄番允(源三郎、義冬、雄光)、土方雄久(勘兵衛尉、雄良)ら織田家臣が尾張から付属。彼らは後に信雄重臣、側近層となっていく事になります。
具教らが笠木へ移った翌日の十月五日には信長は山田へと移り、六日には内宮、外宮へ参詣しました。この時に関所を開けるように指示したようです。八日に伊勢における家臣配置を決定して十一日には伊勢を離れて上洛。そして義昭と揉めています。
十月十日には最前線の小森上野城から長野勢が退散。正月から十ヶ月に渡って小森上野城で籠城戦を続けていた藤方具就は最後まで城を守り抜きました北畠国永は『年代和歌抄』の中で「具就武運をひらき白拭に名をしらるる事、愚老の満足何事のこれにしかむや」と息子の活躍を喜んでいる。
……というかこの戦い、まともに落城したのは阿坂城くらいですね。大河内城は和睦で退去、木造城も寝返りだし……。


十一月十五日には具房が沢房満へ西黒部などの権利を安堵する奉行人奉書を出しています。戦後処理の一環でしょうか。

 

1569~1571 曽原城籠城

永禄十二年(1569)十二月、和睦条件であった諸城破却が実施されました。しかし曽原城天花寺小次郎がこれに従わずに籠城。家城主水佑ら北畠重臣もこれに加勢して国内が騒動となってしまいました(『勢州軍記』)。
翌元亀元年(1570)に北畠勢(織田勢?)が付城を築いて城を攻めたものの敗退。元亀二年(1571)の夏にはついに北畠具房が自ら出馬。曽原城を攻撃しています。
この際に家城主水佑は主君に対して弓を引くことを恐れて北畠方に寝返り城を出ますが、城方がこれを追撃して激しい合戦となっています。原城はその後陥落天花寺小次郎は滅亡しました。
天花寺たちが破却に従わず戦う道を選んだのは自身の持城が破却の対象になったことが不満だったとも云われますが、実際はっきりとはしません。この騒動によって織田方が計画していた城の破却は結局一つも実施できなかったとされます(『伊勢国司記略』)。
『勢州軍記』は天花寺小次郎を「勇心を励まし、独り主君に背き、後の災い知らずして自ら滅亡す、誠に思慮あるべき者なり」とあまり良い評価はしていないように思えます。

 

 

3へ続く

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主な参考文献
三重県史』 通史編「中世」
『伊勢北畠氏と中世都市・多気
九鬼嘉隆―戦国最強の水軍大将―』

大西源一『北畠氏の研究(復刊)』
久野雅司『足利義昭織田信長
谷口克広『信長軍の司令官』
和田裕弘織田信長の家臣団』
岡野友彦『戦国貴族の生き残り戦略』
勝山清次・飯田良一・上野秀治・西川洋・稲本紀昭・駒田利治編『新版県史 三重県の歴史』(山川出版社 二〇一五年)
村井祐樹『六角定頼』
赤坂恒明「天正四年の『堂上次第』について―特に滅亡前夜の北畠一門に関する記載を中心に―」
稲本紀昭「北畠国永『年代和歌抄』を読む」(史窓65巻 二〇〇八年)
吉井功兒「伊勢北畠氏家督の消長」

 

……など。
詳しくは参考文献リストや史料リストをどうぞ

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戦国大名伊勢北畠氏の歴史 その1 (1467~1560)

戦国大名伊勢北畠氏の歴史 その1
応仁の乱(1467)~松永久秀の侵攻(1560)までになります。

 

戦国大名伊勢北畠氏は戦国時代に伊勢国南部(南勢)を支配した地域権力です。
信長の野望でも登場しますし、南北朝時代北畠親房北畠顕家なんかが活躍したので「あー、あの北畠の親戚ねー」くらいに認知している人もいるかもしれない。
私はあまり南北朝時代は詳しくないので逆に「調べとる大名の先祖たちかー」になるんですけどね。
そんな北畠氏、南北朝時代の後は室町幕府に従って活動し、そのまま南勢を支配する勢力として戦国時代に突入しました。


「……で、こいつら戦国時代には何をしとったんや?」


ってなりません?
南北朝時代の後に北畠氏が歴史の本流に出現するのが織田信長の侵攻の時くらいなので(大河ドラマではそれすらスルーされることもある)、たぶんほとんどの人は北畠氏が戦国時代に何してたかを知らんのでは?少なくとも私は調べるまで知らなかった。(まぁ知らなくても戦国ファンとして全然生きていけるんだけど…)。

そんな訳なので「軽くでいいから伊勢北畠について知れるとこがあったらいいよねー」と思い、応仁の乱から戦国末期までの伊勢北畠氏が何をしてたとかを簡単に書いていこうと思います。


素人が頑張って書いてるもんなので、あまり信じ過ぎずに夏休みの自由研究の発表くらいに思ってお読みください。個人的な感想も入ってます。

できれば前回書いた基礎情報も先に読んでおいて頂けますとわかりやすくなります。
https://dainagonnokura.hatenablog.jp/entry/2023/08/19/233530

 

 



 

 

1467 応仁の乱

応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発しました。
この時の伊勢北畠氏の当主は北畠教具。教具は東軍に味方すべく出陣しようとしますが、将軍足利義政によって止められます。(「伊勢国司上洛ハ先以自公方被止之…」)
これは教具の息子で次期後継者の北畠政郷が、西軍主力の畠山義就と仲が良かったことを警戒してのものでした。上洛した後に親子でどっちに付くで揉められても困りますからね。

 

1467 足利義視がやって来る

応仁元年(1467)八月には将軍の弟である足利義視が北畠氏のもとへやってきました。在京していた北畠一族の木造教親が手引きをしたようで翌年九月まで一年程滞在しています。すぐに帰らなかったのには北勢への出兵に義視の存在を利用したい北畠氏側の思惑もあったようです。義視の方もいろいろあったかもしれませんが。
応仁二年(1468)七月に北畠軍が北勢の河曲郡へ出兵して世保氏と戦っています。半済実施権をめぐる対立があったようで、足利義政が弟義視のために与えた半済分に関連するものではないかとみられています。

 

1470 伊勢守護職への補任

文明二年(1470)、北畠氏は伊勢守護職に補任されました
西軍内で南朝の後胤を擁立しようという計画があったため、南北朝時代南朝方であった北畠氏を繋ぎ止めるために行ったのではないかと考えられています。
守護となった北畠氏は北勢へと進出を本格化させていきます。

 

1471 北畠教具が亡くなる

文明三年(1471)三月、当主の北畠教具が急死します。四十九歳でした。
家督は嫡男の北畠政郷が継ぎ、北勢への出兵は継続されています。
政郷は永正五年に六十歳で亡くなったとされるので、逆算するとこの時は二十三歳。伊勢だけでなく中央情勢もどんどん混乱していく難しい場面で突然バトンを渡されることになりました。

 

1473 斎藤妙椿の侵攻

文明五年(1473)、伊勢長野氏と結んだ美濃の斎藤妙椿が北勢へと侵攻。北畠勢がこれを迎え撃ちました。
十二月三日の合戦は双方が300人余の犠牲を出す激戦となり、合戦は北畠方が勝利して斎藤勢は美濃へと退却しています。
北畠氏はこの後、河曲郡神戸氏に任せたとされています。神戸氏は河曲郡の二十四郷を支配する有力領主で、政郷の妹(か姉)が嫁いでいました。政郷の子息とされる具盛も後々養子入りすることになります。

 

1477 北勢で一色氏と争う

文明九年(1477)に北畠氏と一色氏が北勢で合戦を行い北畠勢が勝利しました
幕府が北畠氏を守護から罷免しないまま一色義春を伊勢守護職に補任したことで現地で代官同士が揉めてしまったのが原因らしい。
この揉め事のせいで「北畠政郷が畠山義就に味方するんじゃ……」と警戒されたが、特にそういうことはなく伊勢守護職にも政郷が再任された。
この年には応仁の乱終結したが、北勢での戦争はそんな中央情勢とは関係なく続いた。

応仁の乱の時の伊勢国。北伊勢を巡る争いが繰り広げられたらしい。っていうか世保氏は東軍なの?西軍なの?

 

1479 伊勢守護職を罷免される

文明十一年(1479)八月、北畠氏が「上意を違えた」として突如、伊勢守護を罷免されました。
なにが幕府の逆鱗に触れたかは不明なものの、さすがにこの扱いに北畠政郷も怒ったようで、幕府との関係にも亀裂が入ってしまいます。
畿内で幕府に逆らい続けていた畠山義就からの出兵要請に応じるなど敵対行為を見せ始めます。幕府の奴ら舐めくさりやがって……

 

1479 北勢で大敗する

文明十一年(1479)十一月、畠山義就に味方するぜ!」と息巻いていた北畠政郷でしたが、その直後に北勢へ出兵して長野政高相手に大敗北を喫しました。
興福寺大乗院の日記(『大乗院寺社雑事記』)には「国司の儀、正体有るべからず…」と記されており、かなりの大敗だったようです。
政郷は神戸城(沢城)へ逃げて籠城したものの武力では事態を打開できず、翌年三月に大和国人の越智氏の斡旋で和睦しています。なおこの時、北勢の北畠方武士たちが帰国を押し留めたため翌月まで帰国が遅れてしまっています。
その四ヶ月後の八月には長野政高が鈴鹿郡の関一党と争い始めたため、政郷は関一党に味方して長野氏を攻めて今度は勝利しました。(和睦とはなんだったのか)
また北畠政郷は神戸城に籠城中に名前を「政勝」に変えています。以前は政郷と政勝は別人と考えられてきましたが、近年の研究で同一人物と判明しています。
(ここではいちいち名前を変えても面倒なので政郷で統一して書いていきます)。

長野氏との合戦に敗北した政郷は神戸城へと逃げ延びて籠城。ちなみに写真は神戸城ですが、当時の神戸氏本拠は神戸城の数百メートル南西にあった沢城なんでこの写真の神戸城とは実は関係ない。写真があったからとりあえず載せた。

1482 赦免される

文明十四年(1482)四月、畠山義就に味方して軍勢を派遣しています。この軍勢は内房が率いており、伊賀国名張衆が中心だったとされています。
文明十六年(1484)には畠山義就が幕府に赦免された事で北畠氏も赦免され伊勢守護職にも再任。
この赦免に合わせてのものなのか、北畠政郷は隠居して大御所となり家督を嫡男北畠材親(読みは「きちか」で、この時の名前はまだ具方)に譲りました。ただ材親が伊勢国司として正式に活動を始めるのはこの三年後とされています。

 

1486 山田への出兵と外宮炎上

文明十八年(1486)に北畠氏の軍勢が自治都市伊勢山田へと出兵。山田の軍勢を宮川で破り、山田側の反北畠派リーダーである榎倉の村山掃部を自害に追い込んでいます。
戦いには勝利した北畠・宇治連合軍でしたが、山田の町は炎上してしまい、しかも村山掃部が外宮に立て籠もって火をつけて自害したことで外宮正殿までもが焼失してしまいました。最悪。(仮殿を作る費用は出した)

山田(外宮)は宇治(内宮)と以前から対立しており、北畠氏は一応その調停者として動いていました。
しかし宇治山田の対立だけではなく、神領への勢力拡大を続けたい北畠氏とそれを快く思わない山田との対立も同時に存在しており、最終的に北畠氏は宇治に加勢する形で争いに参加しています。
山田の町は自治都市であり、複数の郷の有力者(御師、高利貸しなど)が山田三方と呼ばれる自治組織を作って運営していました。北畠氏は有力者たちと被官関係を結んで緩い形で支配下に置いていましたが、山田側には北畠氏が自分たちの領域へ侵食を続けることや宇治に味方することへの不満は強かったようです。
他にも山田の高利貸しから金を借りて所領を失った牢人衆を北畠氏や愛洲氏が支援していたらしい。

ちなみに『勢州軍記』ではこの山田合戦が天文年間の出来事になっていて、行ったのも北畠晴具になっている。Wikipediaでもそれを採用しているのか天文三年に宮川の戦いで山田勢を破って両門前町支配下に置いたことになっている。天文初期にも山田との抗争はあったので、たぶんごっちゃになっちゃったんじゃないかな……。

宮川。ここを越えると外宮と門前町山田がある。

宇治と山田がとにかく仲が悪い。

 

1487 幕府から詰問される

長享元年(1487)、足利義尚が近江へ出兵し、北畠氏も参陣しました。(勾の陣)
しかしこの直後に国司不快」として足利義尚から河内(畠山義就)、美濃(土岐氏)、大和(越智氏)と並んで北畠氏も討伐対象として名指しされてしまいます。
旧西軍や畠山義就に近いメンバーであることから牽制目的であったと考えられています。
さらに翌長享二年(1488)には幕府より詰問が行われました。

 

幕府からの詰問↓
「なんで伊勢神宮へ向かう道に勝手に関所を設置してんの?」
「在京奉公しろや」
「なんで神三郡を横領してんの?」
「外宮を燃やしたやろ?」

 

これに対して北畠氏は


「領地が少ないから関銭を家臣に知行として与えている。許可はとった。」
「国務のため自分は在国している。代わりに一族の木造氏を私費で在京させている。」
「神三郡の地下人たちが調子に乗ってるから国司として成敗しているだけ。神事には口出ししていない。」
「外宮炎上は山田(外宮)と宇治(内宮)の争いによるもので、自分たちは内宮に手を貸しただけ。」

 

こんな感じで回答しました。
特に揉めた形跡もないためこれでOKだったらしい。細川政元の取りなしがあったのではとも考えられています。
というか翌年には将軍義尚が急死しているのでどうでもよくなったのかも。

 

1489 将軍交代

長享三年(1489)、将軍足利義尚が病死して従兄弟の義材(義稙)が新将軍に就任しました。
(義稙の方が有名ですが、ここでは義材で統一して書いていきます)
北畠氏はこの義材(義稙)とは良好な関係を築きました。北畠材親(具方)の「材」はこの義材から偏諱として貰ったものになります。
延徳三年(1491)の六角征伐では伊勢国司」も参陣リストに載っているので材親も軍勢を率いて出陣したようです。
しかし明応二年(1493)にクーデター(明応の政変)が起こり義材が失脚してしまい、足利義澄が新将軍となります。失脚した義材もそれで諦めることなく将軍復帰を目指したことで将軍家が分裂してゴタゴタしてしまいました。
一応この時期の北畠氏は義材派であったのではないかとされます。

 

1489 山田がまた燃える

延徳元年(1489)六月、山田の軍勢が宇治四郷を襲撃する事件が起こりました。北畠氏の出陣も噂されたようですが結局行われず宇治が敗退
宇治には牢人堪忍料として山田に関所を三ヶ所設置することを許可する措置がとられました。しかし三年後には宇治が「約束の三年経ったけど関所は一ヶ所残してくれんか?」とか言い出し、山田側は不満を高めます。
そして明応二年(1493)についに山田側の不満が爆発し挙兵、磯城に籠城します。
北畠氏は「緩怠」として出兵、八月二十二日に磯城を攻め落としました。山田側の討死溺死は千人余とされ反北畠勢力は大打撃を受ける事になります。『神宮年代記抄河崎』は「山田が荒野に成った」と記しており、山田の町もかなり大きな被害が生じたようです。

 

1497~1503 国司兄弟合戦

明応四年(1495)十月、北畠氏の重臣たちが対立する重臣の処分や棟別銭免除や徳政を求める申状を材親に対して提出しました。


「あいつらクビ(だけ)にしろ!家族も追放!棟別銭も免除しろ!徳政もやれ!」

という過激な訴えです


この時期は支配制度の変革が行われており反発する家臣らも多かったようです。
しかし材親はこの申状を認めず、訴えを起こした重臣の一部から扶持を没収するなど厳しい対応をとりました。納得いかなかった一部の重臣は反乱を起こして翌明応五年(1496)一月には田丸城を攻撃しています(山一揆)。これだけなら一部重臣による反乱を鎮圧すればよいだけのものでしたが、思わぬ形で乱は拡大しました。


明応六年(1497)、反乱を起こしていた大宮勝置、高柳方幸らが材親弟の北畠師茂(木造師茂)を擁立したのです。師茂義父で有力一族である木造政宗もこれに加担し、反乱は有力一族も交えた北畠家督を巡る争いへと発展
さらに追い討ちをかけるように大御所北畠政郷までもが材親を裏切り師茂へと味方材親とその生母を幽閉してしまいます(「父親入道取籠之(中略)是侍従(師茂)方引汲之故也…」)。
政郷と材親は二頭政治を行っていましたが、この時期にはどうにも関係がよくなかったようです。本所(北畠氏当主)として政治を行っていたのは材親ですが、家臣の中には大御所政郷を頼ることで同族から独立しようと試みる者がいたり、材親のところで裁判を起こす前に政郷の許可を得ていたりと家督である材親とは別の権力者として政郷を利用しているような動きがありました。親子の仲が悪くなっていったのはこのあたりが原因ではないかと考えられています(政郷も家臣達に突き上げをくらって動いてただけかもしれませんが…)。


幽閉されてしまった材親でしたがなんとか軟禁を脱したようで、その後は一族や家臣を率いて木造城を攻撃。戦いは材親方が優位に進め落城寸前まで追い詰めます。


しかし今度はこのタイミングで隣国の伊勢長野氏が師茂方として介入。材親勢の背後を急襲したことで材親方は有力一族の大河内親文らを失う大敗を喫してしまいます。(「長野勢ウシロツメニアカリテ大合戦ナリ。国司方打負け、六七百人被打云々…」『中臣師淳記』)。かなり大きな敗北だったようで『後法興院記』では「兄方難儀」と記されています。材親の苦戦が諸国に伝わっていたようです。


……ですが、またしても戦況を一転させる出来事が起こります。材親を裏切っていた父北畠政郷が木造城から師茂を連れ出して材親の元へ出頭させたのです。
「息子と妻を幽閉までしといてどのツラ下げて……」って感じですが、これによって師茂は切腹させられ家督争いは材親の勝利で終結しました。長野氏の介入が政郷的にボーダーラインだったらしく、早期終結のため師茂を投降させたのではないかと考えられています。
ただ師茂義父の木造政宗は降伏せず抵抗を続けました。後土御門天皇が和睦を望んでいますが成立せず、結局六年後の文亀三年(1503)にようやく和睦が成立しています。和睦後は木造城を国司家(北畠本家)が接収して沢方満を城代として入れ木造城領を管理させています。木造政宗らは戸木城へと移りました

状況が二転三転した北畠氏の内戦

 

1498 明応地震

明応七年(1498)八月二十五日、東海地方を大地震が襲いました
各地の沿岸を津波が飲み込み、伊勢・志摩でも大湊で五千人が流死安濃津は二十四年後の史料にも「荒野」と表現される壊滅的被害を受けました。『内宮子良館記』は「伊勢島間(伊勢志摩)ニ彼是一万人計リ流死也」と記しています。
北畠氏はこの時まだ木造政宗と抗争中でしたが、明応六年八月の師茂切腹後から文亀三年(1503)の和睦までに合戦をしたという史料がないので、もしかすると地震津波影響で軍事行動を起こせなかったのかもしれませんね。

あまりにもでかすぎる津波の被害。怖い。

 

1505 足利義材の復活

永正二年(1505)、北畠材親は将軍足利義澄から伊勢守護職を罷免されます。これによって特に問題が発生したということはありませんでした。
永正三年(1506)には相可で一向一揆が起こり、八月に北畠氏が相可城を攻め落としています。北畠氏と同じく義材派(義稙)だったとされる越前朝倉氏も同時期に加賀一向一揆による大規模な攻勢を受けていることから、細川政元による策謀だったのではないかとも考えられています。
永正五年(1508)四月には足利義材(義稙)が大内義興細川高国畠山尚順らに支援されて上洛。六月に義澄を追放して翌月には再び義材(義稙)が将軍となります。
なおこの永正五年(1508)十二月には先代当主である北畠政郷が亡くなりました。

 

1509 三好長秀を討ち取る

永正六年(1509)、伊勢国へと逃げてきた三好長秀を北畠氏が伊勢山田で討ち取りました。この件に関して将軍や幕府関係者たちから感謝されている手紙が何通か残っています。
北畠材親は義材(義稙)政権の中心人物の一人である細川高国との結びつきを強め、翌永正七年(1510)には義材派として軍勢催促を受けています。

 

1517 材親死ぬ

永正十四年(1517)、数年前から腫物を患っていた北畠材親が五十歳で亡くなります。
政郷、材親の時代は神三郡への侵食、領国支配の改革、内乱と様々な苦難を乗り越え北畠氏が戦国大名として確立された時代でした。あまり知られてはいないですが伊勢北畠氏にとっては非常に重要な時代ですね。
材親が死んだことで北畠氏当主は嫡男の北畠晴具が継いでいます(初名は親平でその後は具国ですが、晴具で統一して書いていきます)。この時はまだ十五歳でした。
なお家督を継いだ翌年に晴具は官位の昇進を朝廷に望みましたが、これには在京していた公家の中御門宣胤が日記に不満を書き記しています。在京して天皇のために尽くすわけでもないのに官位の昇進には熱心という北畠氏は、在京する公家からはちょっと嫌われていたようです。禁裏の修理費すらも出し渋るしね。そもそも官位の昇進以外は存在がほぼ武家化している。

北畠晴具の肖像画
まぁこれは本物ではなく私が勝手に想像で描いた令和四年製のものですが。

 

1521 細川高国と仲良くする晴具

永正十八年(1521)には足利義材(義稙)が追放され、新たに足利義晴が将軍となっています。北畠氏は義晴を支援した細川高国との関係を重視して義晴を支持したようです。
大永五年(1525)にはその足利義晴から晴の字を偏諱として貰い晴具と名前を変えました(親平→具国→晴具)。また時期は不明ですが細川高国の娘を正妻に迎えていて、享禄元年(1528)には嫡男具教が生まれています。
大永六年(1526)二月、北畠晴具が上洛します。伊勢国司家当主の上洛は三十五年ぶり。全然上洛していないぞ公家なのに。上洛した晴具は義父の細川高国の屋敷に招かれ、犬追物、猿楽、酒宴と連日歓待されています。
しかし享禄二年(1529)にはその細川高国畿内での抗争に敗れてしまい北畠晴具を頼って伊勢は落ち延びてきます。しばらく保護していた北畠氏でしたが、復帰を目指す高国への直接的な軍事支援は断ったらしく高国は伊勢を離れます。そして享禄四年(1531)に高国は摂津国で敗れて自害しました。(大物崩れ)
高国はいくつか辞世の句を詠んでいますが、その中には婿である北畠晴具に贈ったものもありました。


絵にうつし 石をつくりし 海山を

のちの世までも 目かれずや見ん


北畠氏居館にある庭園についてのもので、今も北畠氏館跡に残るこの庭園は細川高国の作庭と伝わっています。

北畠氏館跡庭園。細川高国の作庭と伝わる。

 

1532 山田との抗争

天文元年(1532)、山田の軍勢によって田丸が攻撃を受ける事件が起こりました。
山伏が何者かに殺害され、それに怒った山田が田丸を攻めたようです(山伏は田丸にあった浜塚権現を参詣しなかったことから殺されてしまったと云われます。山伏の素性はよくわからん。)
晴具が軍勢を派遣してこの争いは鎮められましたが、「神宮に弓を引く事勿体無し」として山神三郷が加勢を拒否して翌年北畠の軍勢に攻められています
すでに神領は北畠氏支配下にありましたが、その支配は必ずしも強いものとは言えなかったようです。
また天文年中となっていて詳細な時期がわからないのですが、『勢州軍記』には「田丸兵乱」という争いも記されています。池山伊賀守、山岡一党が北畠氏に逆心を企て田丸城を攻撃。田丸城にいた北畠政郷四男の田丸弾正少弼顕晴は自害に追い込まれ、慌てた晴具が田丸へ出陣して乱を鎮圧したというものです。
ただ同時代史料では確認できない出来事で、どこまでが事実なのかは不明です。田丸氏が史料上確認できるのも天文五年生まれの晴具三男の田丸具忠からなので、田丸弾正少弼顕晴という人物が本当にいたのかもよくわかっていません。

 

1536 晴具出家と家督譲渡

天文五年(1536)七月に北畠晴具が出家。天祐と名乗っています(ここでは晴具で統一して書いていきます)。
この晴具が出家したあたりで形式上は嫡男の具教へ家督を譲ったと考えられていています。とはいえ具教はまだ九歳なんで実権は晴具が持ったままですけどね。天文八年(1539)二月には公家が既に家督を具教が継承したものとして扱っている形跡があり、一応は対外的にも家督は具教ということになっていたようです。
天文九年(1540)には幕府から足利義教百年忌の仏事銭を、朝廷からは禁裏修理費を求められました。足利義教百年忌の仏事銭は三千疋(三十貫文)を納めたが、禁裏修理費は「難しいッスね…」と納めなかったらしい。公家なのに……

 

1541 具教が行政に関与し始める

天文十年(1541)、この年から具教本人が行政関係の文書を出すようになっています。家督自体は形式上継いでいましたが、伊勢国司家当主としての仕事を行うようになったのはこの年からのようです。
ただ天文九年(1540)十二月には具教の奉行人である教兼が奉行人奉書を出しているので、もしかしたら天文九年からもう行政に関与し始めていたのかもしれません。
この時期からしばらくは晴具・具教の二頭政治体制となっています。
(『三重県史 中世』)

 

1542 蟹坂合戦

天文十一年(1542)九月、北畠氏が悪党どもを近江六角氏領へ差し向けましたが、六角氏重臣の山中秀国がこれを追い払いました。
しかし今度は北伊勢の武士たちが一揆を起こし山中へ侵攻するとの噂が流れ始めたことから山中秀国は国司の謀略や!」と六角定頼に報せ、六角氏は甲賀、粟太、蒲生三郡の旗頭衆に山中への出陣を命じます。
翌十月、北畠勢は木造具国(具国は晴具の旧実名なので、たぶん時期的に木造具康?)を大将に一万余で鈴鹿口より近江へと侵攻しました。
これを聞いた六角勢は山中から蟹坂へと移り北畠勢を待ち受けます。蟹坂で六角勢が待ち構えていることを知らなかった北畠勢は不意を突かれる形となり、一度退いて立て直そうとしますが混乱を止められず敗退しました(蟹坂合戦)
その後は公方(将軍)の斡旋で両者は和睦鈴鹿峠の上を六角・北畠の国境と定めることになり、さらに六角氏の娘を北畠晴具の嫡男具教に嫁がせることが決まりました。
……この蟹坂合戦は『淡海恩故録』という江戸時代の史料にある合戦で、同時代史料には見えないものなのでどこまで事実かはわかりません。
ただ北畠具教の正妻が六角定頼娘なのは『勢州軍記』にもある内容なので、彼女が嫁いできた理由としては説明がつきますし、北勢へと勢力を拡大する六角氏と伊勢側勢力との確執は存在したでしょうから戦いが起こることに矛盾があるようにも思えません。なので個人的には概ね事実なのではないかなぁ…とやんわり思っています。

現状、事実かどうかはなんともわからない蟹坂合戦。

 

1543 山田がまたまた燃える

天文十二年(1543)四月、宇治と山田が抗争を起こしました。四月二十三日から内外道が止まりましたが八月には和睦して停戦となったようです。
この年の七月には長野氏が合戦を行い大勢の死者が出たようです(『多聞院日記』)。合戦の相手が書かれていませんが北畠氏でしょうか?
また天文十四年(1545)の陰陽師への安堵状を最後に北畠晴具の行政関係の史料が見られなくなります。晴具はこの頃には行政の第一線から退いたようです。
(『三重県史 中世』)

 

1547~1551 鷺山合戦・八太の長陣

天文十六年(1547)五月、北畠氏と長野氏の戦争が始まりました。
ちなみに開戦直前の四月頃に北畠具教には嫡男となる具房が誕生しています。
戦争の発端は長野氏家中の家所氏が謀叛を起こし(「此度家中錯乱」)、それを北畠氏が支援したことによるのではないかと考えられています。(「家所御味方申し付けられ…」)
北畠方の本陣は八太に置かれ、「八太之長陣」と記されるような長期戦となりました。戦場は垂水鷺山、垂水口、八太口、神戸、家所前、安部口、下之口と次第に長野城方面へ移っている事から北畠氏が優勢であったのではないかとされています。
『勢州軍記』でも「長野輝伯事」で垂水鷺山で合戦があったことを記しており、長野方は七つの備えを設けて七度鑓を合わせたが勝負は付かなかったとしています。
史料上では天文二十年(1551)までは戦いが行われていたようですが、最終的にどのように決着したかは不明です。
(『三重県史 中世』)
(稲本紀昭「北畠国永『年代和歌抄』を読む」)

なんて呼べばいいんですかねこの戦争。

 

1553 関所が開けられる

天文二十二年(1553)、北畠晴具(天祐)が病気(歓楽)になったので、伊勢神宮での病気平癒の祈祷のために北畠氏は南勢の関所を開けました関所フリーになったことで各地から神宮へ数多くの参詣者が訪れたようです(「関アカル、諸国ヨリ旅人不知数…」)。
北畠氏にとっては貴重な収入源である関銭を稼いでくれる関所ですが、伊勢神宮へ参詣したい人や参詣しに来てほしい神宮側にとってはかなり迷惑なものでした。

 

1555 今川氏の伊勢・志摩侵攻

天文二十四年(1555)六月から七月頃に駿河今川の軍勢が伊勢・志摩へと襲来しました。
「御本所(北畠具教)」が大河内城まで出馬し、重臣の家城式部大輔も田丸城に在陣しています。
あまり知られていない出来事ですが、軍記物等ではなく北畠家臣の佐藤信安が記した『佐藤信安置文』や北畠国永の和歌集『年代和歌抄』など当事者が記したものが出典なのでどうも事実のようです。
ただ今川氏がなぜ「志摩とらむ」と攻めてきたのか、そしてどう和睦に至ったのかはまったく不明で、謎の多い事件でもあります。

 

1556 二見攻めと山科言継来訪

弘治二年(1556)二月、北畠勢が二見郷を攻めています。「二見御成敗」の奉行人奉書があり、『神宮年代記抄(河崎)』にも「国司ノ人数百計ウタル」と記されています。外宮炎上から半世紀以上経っても神領の連中とはたびたび揉める北畠氏でありました。

弘治三年(1557)三月、永禄元年(1558)八月と山科言継が来訪。朝廷の儀式費用を求めたようで、北畠氏は三千疋(三十貫文)を納めています。
興味深いのは、この弘治三年から永禄元年は北畠領国で「酒が停止させられていた」と山科言継が日記に記していることです。言継来訪から数日後には解禁されたようですが、なぜ酒を停止していたのかは不明です。凶作だったのでしょうか?

 

1558? 長野氏の服属

永禄元年(1558)頃、北畠氏が長野氏を服属させ、具教二男の二郎具藤が長野氏へと養子入りしたとされます。
まぁ……この時期とされていますが、はっきりとした史料はありません。『勢州軍記』では永禄の始めとなっていますし、そもそも『北畠御所討死法名』では具藤の年齢は天正四年(1576)で十九歳なので永禄元年(1558)ではまだ乳児です。本当に永禄元年なんだろうか?
長野氏が服属したこと自体は事実なようで、永禄八年の長野氏奉行人奉書では「本所様(北畠氏当主)の御意」を仰せ付けられています。
長野氏が北畠氏に服属した理由として考えられているのが、近江六角氏の北伊勢での勢力拡大です。天文年間には桑名の支配を長野氏から奪うなど北勢地域での影響力を拡大しており、家を守るのにはやむを得ない決断だったのでしょう。(北勢諸勢力と六角氏や北畠氏との関係はやや複雑でわかりづらい部分も多い)

六角氏の勢力が浸食していった北伊勢地域

 

1559 長野氏の北勢出兵

永禄二年(1559)、長野勢五千人が赤堀氏を攻めるため北勢へと出兵しました。北畠氏もこれに援軍を出したとも言われますが詳細は不明です。北勢に上陸した長野勢は赤堀勢と塩浜で戦いましたが敗退して多くの将兵を失ったとされます。
翌年にも長野氏は北勢へ出兵。『勢州軍記』にある神戸城攻事、赤堀城攻撃事がこの戦いのことと思われます。北畠氏は一族の波瀬御所を大将とする軍勢を援軍として派遣したようです。負けましたが。
『勢州軍記』では神戸氏、関氏ともに六角氏重臣蒲生定秀の婿となって六角氏に従属。長野氏は北畠氏に従属。六角氏と北畠氏は婚姻関係にあることからその二つの家にそれぞれ従属している長野と関、神戸らの関係も収まっていった……わけではなかったようで、永禄中頃に「長野と関は互いを滅ぼそうと争っていた」とされます。なんでや仲良くせい。
正直、この時期の赤堀氏、関一党、神戸氏、長野氏らの関わり合いは、いまいちわからないことが多いです。

 

1560 松永久秀の大和侵攻

永禄二年(1559)八月、三好長慶重臣松永久秀大和国へと侵攻しました。
大和国宇陀郡を領有する北畠氏も無関係でいられず筒井氏、井戸氏、喜多氏、豊田氏らと連携して争うことになります。北畠具教は数多の城を築かせ、守道城に秋山藤七郎を入れるなど防備を整えています。
しかし翌永禄三年(1560)十一月、松永久秀による宇陀郡侵攻が行われ、瞬く間に宇陀郡は三好方の手に落ちてしまいました
いよいよ三好勢による伊勢侵攻の危機が迫りますが、そうはなりませんでした。翌永禄四年(1561)、三好氏は六角氏、畠山氏の挟撃に晒されてしまい「伊勢とかに構ってる場合ではない!」という状況になったためです。
宇陀郡から没落した沢氏は北畠氏重臣として活動しながらその後も宇陀郡復帰を狙いました。秋山氏は大和側の勢力に従って動いたという説もありますが、沢氏が秋山氏の所領を違乱したことを永禄六年に北畠具房が責めているのでその後も秋山氏は北畠氏に従っているように見えます。よくわからん。
この秋山氏については『勢州軍記』で秋山謀反という内容が永禄始めの出来事として載っています。秋山遠州が三好の婿となって北畠氏に背いたために討伐され、父である秋山宗丹(宗誕)を人質に出して降伏。家督を弟の秋山右近将監が継いだというものです。どこまで事実かは不明ですが、永禄五年の北畠具房書状に秋山宗誕の名前が出てくるので父親に関しては実際に存在した人物のようです。

イケイケな三好勢の前に宇陀郡が一瞬で陥落してしまった

 

 

その2へ続く

dainagonnokura.hatenablog.jp

 

(出典や参考文献を載せて文章のあちこちに載せてたんだけど、読みづらすぎて最後にまとめました。そもそもこんなん素人がブログでやることではない気もするけど…)

主な参考文献

三重県史 通史編「中世」』
三重県史資料叢書北畠氏関係資料』
三重県史』 通史編「中世」
三重県史』 資料編「中世1~3」
大薮海『応仁・文明の乱と明応の政変』(吉川弘文館 二〇二一年)
大薮海『室町幕府と地域権力』(吉川弘文館 二〇一三年)
大薮海「幕府から武力を期待された公家衆―伊勢北畠氏」(神田裕理編『ここまでわかった戦国時代の天皇と公家衆たち【新装版】』)
小林秀「戦国期における畿内近国大名の権力構造」
伊藤裕偉「中世後期木造の動向と構造-北畠氏領域における支城形態の一事例-」
藤田達生編『伊勢国司北畠氏の研究』
吉井功兒「伊勢北畠氏家督の消長」
稲本紀昭「北畠国永『年代和歌抄』を読む」
金松誠『松永久秀
天野忠幸『松永久秀と下克上』
大西源一『北畠氏の研究(復刊)』
勝山清次・飯田良一・上野秀治・西川洋・稲本紀昭・駒田利治編『新版県史 三重県の歴史』
……など。
詳しくは参考文献リストや史料リストをどうぞ

dainagonnokura.hatenablog.jp

dainagonnokura.hatenablog.jp

戦国大名伊勢北畠氏の基礎情報

戦国大名伊勢北畠氏の基礎的な情報をまとめておく

 

注:専門家でもなんでもない素人が頑張って書いただけのものですので、あくまで参考程度にお読みください。

 

 

伊勢国司北畠氏の勢力範囲(推測含む)

◎伊勢北畠氏の誕生

北畠氏は村上源氏久我氏の分家である中院家からさらに別れた家で、京都の北畠に屋敷を構えたことで北畠を名乗った。

南北朝時代になると北畠親房南朝重臣として活動。北畠氏は伊勢国となり南勢(南伊勢)に勢力を根付かせ、南北朝時代が終わると今度は室町幕府に従い北畠大納言として南勢五郡の支配を引き続き認められた。

公家だが京都には戻らず在国して南勢の支配を継続。反乱を二度起こして当主北畠満雅が討死して知行を全て失うこともあったが、その後なんとかいろいろあって復活している。

南勢五郡のうち元々伊勢神宮の支配していた神三郡を没収され神宮へと還付されるものの、神宮の支配後退に伴い15世紀末までに勢力を浸透させ再び支配下に置いた。
なお勝手に支配しているので幕府から「なんでお前が支配しとるんや?」と詰問されたりしている。あと外宮燃えたのも怒られた。北畠側は「俺は悪くない。やったのは宇治(内宮)。俺は加勢しただけ(責任転嫁)」と弁明した。

北畠氏は村上源氏

 

伊勢国司と呼ばれ続ける

南朝から伊勢国司に任じられたことによって、伊勢北畠氏の本家は戦国時代まで伊勢国司(国司家)と呼ばれ続けた。
もちろん国司としての権限で支配を行っているわけではなく、あくまで通称、格式として用いられている。朝廷や幕府が正式に国司として任じているわけではないし、特に伊勢守という訳でもない。

京都には北畠一族の木造氏が在京していて、多くの人にとって「北畠=木造」だった(公家の日記等に出てくる北畠はだいたい木造氏のことを指していることが多い)。
そういう事情から両者を区別するために伊勢に在国している本家は「伊勢国司」と呼ばれていたのではないかと考えられている。

ただ国司という称号に実は意味があった可能性や、本人たちは意識して領国支配を行っていたのではないかという説もある。

(『室町幕府と地域権力』大薮海)

(室町時代の「知行主」-「伊勢国司」北畠氏を例として-)

 

京都の人たちにとっては木造氏が北畠だった



◎本所・大御所・中ノ御所

伊勢国司家の当主は「本所(御本所様)」と呼ばれ、隠居すると「大御所」と呼ばれた。大御所の北畠具教がいる段階で隠居した北畠具房のみ「中ノ御所」と呼ばれたとされる。
一族らもそれぞれ○○御所と呼ばれている。

 

◎官位

羽林家ということで最大で大納言まで昇進可能だった。戦国時代になっても歴代の当主や一族は高い官位に昇進している。
これは同じ村上源氏である久我氏との関係が昇進を可能にしていたのではないかとみられている。
(『戦国貴族の生き残り戦略』岡野友彦)


戦国時代の当主たちの最終官位はこんな感じ
北畠教具→従二位権大納言
北畠政郷→従四位上右近衛権中将
北畠材親→正三位大納言
北畠晴具→従三位中納言
北畠具教→正三位中納言
北畠具房→左近衛中将


政郷は若くして出家したこと、具房は早くに隠居して死去したことであまり昇進しなかったと考えられている。
他にも有力一族が


木造俊茂→従三位参議左中将
大河内頼房→正三位中納言
坂内具祐→従四位下参議播磨権守
田丸具忠→従四位下左中将


と高い官位についていて、こうした有力一族以外にも多く一族が少将や侍従になっている。
…しかし在京してしっかりと朝廷に仕えているわけでもないのに昇進だけはしていくので、在京する公家たちからは嫌われていたようだ。

 

半国守護ではなかった北畠氏

室町幕府体制下の伊勢北畠氏は南伊勢五郡の半国守護(分郡守護)であったと考えられてきた。
しかし近年では「どうも違うのでは?」となってきている。
北畠氏は自分の知行地である南勢五郡へ様々な権限を持っていた。
そしてそれらの地域に伊勢守護が命令を出した形跡はなく支配に干渉していない。北畠氏がまるで守護かのように統治していた。
しかし幕府からは「伊勢守護」「北畠大納言」は分けて扱われており、半国守護(分郡守護)のようなものが設置されたことも確認されていない
そのため現在では北畠氏は半国守護とかではなく、ただ守護の支配が及ばない一定地域を知行していた「知行主」と位置付けられている(応仁の乱の時に伊勢守護職に補任されている)。
この分郡守護の否定は北畠氏に限った話ではなく、全国的にその存在の見直しが進んでいるいようだ。
(『室町幕府と地域権力』大薮海)

(室町時代の「知行主」-「伊勢国司」北畠氏を例として-)

 

◎伊勢守護

応仁の乱の最中、北畠氏は伊勢守護職に補任されている(その後、罷免されたり再任したりした)。
伊勢守護の支配範囲は伊勢全体には及ばず、北伊勢(北勢)の四郡に限られる
これは守護とは別に「知行主」として関一党(鈴鹿郡)、伊勢長野氏(庵芸郡・河曲郡一部)、伊勢北畠氏(南勢五郡)らが存在していたことが理由である。(というか員弁郡朝明郡にも北方一揆、十ヵ所人数という奉公衆の集団がいるので支配地域はさらに小さくなる)
では守護となった北畠氏が北勢五郡を支配できたかというと、そういうわけでもない。一色氏、世安氏、長野氏らと北勢を巡って争っている。(『列島の戦国史2 応仁・文明の乱と明応の政変』大薮海)
応仁の乱が終わってもこの戦いは終結せず、どの時期に落ち着いたのかよくわからない。


その後、永正五年(1508年)に北畠材親が足利義稙によって再び伊勢守護に任じられ、北勢に進出。同じように北勢に勢力を伸ばしていた長野尹藤と衝突したとされ、永正十二年(1515年)には栗真荘で愛洲氏と長野氏が交戦したらしい。(「伊勢北畠氏家督の消長」吉井功兒)
具体的な時期は不明だが、材親の時代には子の具盛を神戸氏の養子に入れたり、妹を長野氏(尹藤か稙藤)に嫁がせていたとされる。

 

◎領国

戦国時代の北畠氏領国はこれらの地域になる。
南勢五郡(一志、飯高、飯野、多気、度会)
大和国宇陀郡
志摩国
熊野地域
伊賀国


なお軍記物なんかだとこんな感じになっている…
・志摩一国二郡の諸侍を従えいていた。
大和国は久世満西が常に国司を防ぎ戦っていた
紀州熊野山尾鷲新宮等の侍も国司方に属す。
伊賀国名張、阿賀二郡の諸侍は国司に従う。
これは『北畠物語』からですが、だいたい同じ感じで書かれていたはず。
どこまで事実かわからない部分も多い。

 

・南勢五郡
本国と呼べる地域は南勢五郡。
まぁ幕府から認めてられているのは一志・飯高の二郡支配のみで、神三郡は本来、伊勢神宮のものなんですけどね。
十五世紀、神宮の支配後退に伴い北畠氏が神三郡を浸食し、支配下に置いた。
ただ南勢五郡の中にも山田三方や、小倭郷一揆のように自立性が高い地域もあった。

 

志摩国
天正十年頃に国境が変更されるまで、志摩国の範囲は現在の南伊勢町から尾鷲市付近までを含んでいた。伊勢側の国境も鳥羽城の北を流れる妙慶川とされ、近世以降の志摩国の範囲とかなり違う
ただ奈井瀬や阿曽浦(現在の南伊勢町近辺)は中世でも伊勢と認識されてる感があったりする。この地域は五ヶ所愛洲氏が独自に領地を治めていて、彼らは北畠氏に従っていた。
古和浦には北畠氏が行政文書を発給しているので北畠氏の領国。
あとは『勢州軍記』なんかの軍記物で長島、尾鷲あたりまでは北畠氏領であったように書かれている。
ということは、おおよそ五ヶ所(南伊勢町)から古和、あとは長島(紀北町)、尾鷲近辺までは北畠氏が勢力下に置いていたことになる。


一方で近世以降の志摩国地域(現在の鳥羽市志摩市)には九鬼氏らをはじめとする「志摩十三地頭」とか「嶋七党」とかいう土豪(水軍)たちが割拠していたが、北畠氏と直接やりとりした史料が少なく、はっきりとした関係性は不明。

天文二十四年(1555)七月には駿河今川の軍勢が「志摩とらむと」出兵してきたが、これに対応するため北畠具教が出陣している。この時には志摩は自分たちの領国という意識があったらしい(「年代和歌抄」「佐藤信安置文」)。
だが、永禄六年(1563)とされる教兼奉行人奉書には「花岡・和具・越賀、其外敵地之面々…」とある。志摩国への出兵に関するものだが、少なくともこの時点では一部の勢力は従っていなかったか、もしくは一時的に敵対していたらしい。
『勢州軍記』では九鬼右馬允が掟に背いたため他の志摩七党が一味同心して九鬼氏を攻めて没落させたとしてる。『寛政譜』では九鬼氏との戦いで七党が援兵を多気国司に借りたという話になっている。永禄六年の志摩出兵はこの時の戦いのことではないかともされる(『九鬼嘉隆―戦国最強の水軍大将―』鳥羽市教育委員会)。

浜島地誌では「古老の伝言ヲ記ス」として「伊勢国北畠ニ隷属ス」とあるようだが(『浜島町史』)、伝言なのでなんの確証もない。一応、昔の浜島あたりではそう伝わっていたらしい(そもそも江戸時代初期の軍記物で志摩国を従わせていたと書いてあるし)。
信雄の時代には九鬼嘉隆は志摩衆を率いて北畠氏に従っており「功を三助殿様(信雄)に披露しておく」と越賀氏(志摩の武士)に伝えている。『勢州軍記』でも信雄に仕えたとなっている。


・宇陀郡
宇陀郡の実効支配南北朝時代から行われており、沢氏、秋山氏、芳野氏ら宇陀国人を傘下に収めている。彼らは宇陀郡内で独自に権益を持つ「国衆」でありながら、北畠氏の重臣としても活動した。
この宇陀郡支配に絡んで興福寺門跡東門院へ北畠氏当主子弟が入室している。このあたりは大薮海氏の研究があるので詳しくはそちらで。
(『室町幕府と地域権力』大薮海)

(興福寺東門院の相承-文明四年北畠氏子弟入室の前提)

(北畠氏の宇陀郡支配と興福寺東門院)

あとは宇陀郡一揆についても論文がある。こちらはネットで読むことが可能なので是非。
(「戦国大名北畠氏の権力構造:特に大和宇陀郡内一揆との関係から」西山克)

 

・熊野
熊野地域については史料不足のためよくわからないが、『勢州軍記』では「熊野武士は国司家の幕下にあった」としている。三鬼城あたりが境目だったようなので現在の尾鷲市近辺までは北畠氏の勢力圏だったのかもしれないが、はっきりとしない。

 

伊賀国
『勢州軍記』によると伊賀国には六十六人の侍がいて、彼らが一味同心して諸城を守っていたとされる(伊賀惣国一揆)。
北畠具教の粛清後は具教派残党が伊賀に潜伏していたとされ、また具房の時代には伊賀北村氏が伊勢国内に領地を与えられている
(『三重県史資料編近世1』98p『伊賀市史 第四巻資料編』747p)。
伊賀衆の中に北畠氏の被官がいたことは信雄家臣の小川長保(新九郎)も『小川新九郎覚書(伊賀の国にての巻)』に記している。「伊賀の大名三十余人」「千石二千石」ほどの知行を伊勢国内に与えられていたようだ。彼らは知行を与えられていることに「忝けない」と感じ、国司の所へも度々御礼に行っていた。
全域を支配した訳ではないだろうが、伊賀の領主たちにそこそこ強い影響力を持っていたのは確かだと思う。

伊勢国の主な城。伊勢北畠氏は南伊勢を領国としていた。

 

◎本拠地、多気(多芸)

伊勢北畠氏累代の本拠である。

本拠は!大河内城では!ない!

元々は平野部にある玉丸城(田丸城)を拠点としていたが、興国三年(1342)に失陥したことで多気(たげ)へと本拠を移転した。
行ったことがある人ならわかると思うがかなり山奥にある(三重県津市美杉町上多気)。
山奥ではあるが伊勢平野部、伊賀、大和を結ぶ地点に位置する要衝であり、平野部を回復した後にも北畠氏は多気を本拠とし続けている
この土地の名前から北畠氏権力は多気様」多気殿様」「多気御所とも呼ばれ、多気「多芸」と書かれることもある。
……伊勢には多気(たき)郡という郡があるので紛らわしいが、本拠地の多気があるのは一志郡多気(たげ)。全然違う場所なので注意。
谷の中に国司館や家臣の屋敷が立ち並び城下町として繁栄した。
国司館の裏山には霧山城という詰城も築かれている。
多気信長の野望シリーズだと霧山御所として登場するのでそっちの名前で認知している人もいるかもしれない(でも大河内城が本拠となっている時が多いか…)。


天正三年(1575年)に本拠地が田丸城へと移転し、首都としての機能を失った。多気が本拠になる前は田丸城が本拠だったので、233年ぶりに本拠が戻ったことになる。
ほとんどの家臣が田丸城へ移ったのか、翌年の夏には北畠具教も多気に飽きて小石(大石)に移っている。


……なんで具教だけ多気にいたのかよくわからないけど。
連れてって貰えなかったんだろうか。意地を張って残ったのかもしれん。どっちにせよ具教だけ田丸城へは移っていない。
天正四年の具教粛清後に滝川一益によって攻め落とされた。
現在では国司館の跡に北畠神社が建ち、当時から残る庭園霧山城跡多気北畠氏城館跡として国指定史跡となっている。続日本100名城の一つ。

 

北畠氏館跡庭園。細川高国の作庭と伝わる。

想像で描いたので特に正確なものではないです。

 

◎伊勢北畠一族

・木造氏(こつくり)
一族の頭……とされるが自立性が高く、十五世紀までは在京していた。十五世紀末に木造政宗・師茂(材親弟)が内乱を引き起こすが敗北(国司兄弟合戦(1497年-1504年))。木造城を失って戸木城へと退き、家督は木造俊茂が継いだ。その後、どういう理由かわからないが木造俊茂の子、具康が粛清されて北畠晴具の次男の具政が養子として入った。
弘治二年(1556年)までは沢氏が木造城代として城領を管理したが、木造城領内には木造氏の領地が存在していて、これは城代の管理するものとは別に設定されている。信長侵攻時(1569年)にはいつのまにか木造氏が木造城へと復帰しており、大河内合戦直前に織田方へと寝返った。

 

・大河内氏(おかわち)、坂内氏(さかない)、田丸氏(たまる)
一族三大将と呼ばれる有力一族。
大河内氏、坂内氏は代々国司家の子弟が養子入りするか娘婿となっており、国司家当主との血縁が非常に近い。この二家に関しては単なる分家では済まない扱いとなっている。
田丸氏は天文年間頃に新たに誕生したとされ、晴具の三男田丸具忠が初見となっている。『勢州軍記』では田丸顕晴という人物がいたとしているが同時代史料には名前が見えず正体不明。

 

・他の一族
他にも岩内氏(ようち)、藤方氏(ふじかた)、大坂氏(おっさか)、河方氏(かわかた)、牧氏(まき)らが北畠一族として官位を得ていたり、活動している史料がある。
また史料では姿が見えないが軍記物では波瀬氏(はぜ)などの一族が存在する。
このうち岩内、藤方、波瀬は『勢州軍記』で一族大将であったとされていて、軍勢を率いる立場にあったらしい。
方穂、林、森本らも一族とされるが、遠い血縁なのか家臣として扱われている。

伊勢北畠氏一族。系図によって親子兄弟が変化していてよくわからない部分も多い。



◎家臣団

・四管領
鳥屋尾満栄、水谷刑部少輔、沢房満、秋山右近将監
この四人が『勢州軍記』『北畠家臣帳』で四管領として名前が挙がっている。
当たり前だけど同時代史料で四管領と呼ばれたことはない。


水谷だけあまり史料上名前が出てこず詳細不明。立野城主だったと伝わるらしい。
一応、天正十一年の奉書に水谷播磨権守敬頼、天正十二年に蒲生氏郷の知行割目録に「水谷 五〇〇石」が見える。本人か子息、あるいは一族なのだろうか?


鳥屋尾満栄国司家の侍を率いる大将だったとされる。
『勢州軍記』で「文武に得て知略に深く、万私を捨て人を立てる無双の執事である」と絶賛されている。
天正元年の大湊への出船要請では織田、北畠、大湊の間に立たされていて「中間管理職かわいそう…」というイメージが強い。


秋山は宇陀郡の「国衆」だが北畠氏の重臣としても活動した。

秋山は永禄三年(1560年)の三好侵攻で宇陀郡を失陥した後は大和側の勢力に付いてったとされるが、北畠側の史料にも登場するのでいまいちポジションがわからない。
沢房満は幼少時に父を亡くしながら元服後は若くして武将としても活躍。在番の命令を無視して帰ったり、秋山の所領を横領したりしている。

問題児かこいつ……。

 

・行政文書に出てくる奉行っぽい人たち
安保、朴木、山崎、稲生、垂水、江見、真柄、方穂、星合、林
このあたりは奉行として行政実務にあたっていたのか名前がそこそこ同時代史料に登場してくる。
安保実寄
稲生氏俊
朴木隼人佐
山崎勝通、山崎国通
垂水教兼、垂水藤兼
江見駿河
真柄修理亮
方穂久長
星合直藤
林雅顕(備後守)


・史料に名字や名前が出てくるので実在してる重臣
家城、大多和(三浦)、大宮、榊原、日置、長野、今川、山室、五ヶ所、一之瀬、野呂
家城式部大輔
大多和左馬允
大宮左京亮
榊原弥四郎
日置大膳亮
長野左京亮
今川左馬允
五ヶ所教忠
一之瀬忠弘
山室甚八
野呂(越前守)(文明年間に野呂筑前守がいる)


・軍記物等には出てくる家臣(忘れてるだけかもしれないが…)
奥山常陸
芝山出羽守
本田左京亮
天花寺小次郎
加藤民部少輔
服部民部少輔
大内山但馬守(大内山の領主?史料に出てきたっけ…)


活動時期はバラバラ。とりあえず思い出せる範囲で書いた。
他にも重臣とまではいかないが、多数の武功をあげた佐藤信安なんかもいる。
五ヶ所氏については史料とかがまとめられた論文がある。
(「伊勢国国人愛洲氏について」稲本紀昭)


天正四年の具教粛清後に反信雄派となり反乱を起こした家臣もいれば、信雄にそのまま使えた家臣もいる。

 

国司奉行人(公方奉行人)

北畠氏奉行人奉書を発給する奉行人。
実務面では活動せず、専ら右筆的な立場であったとされる。
代々国司家当主の一字を偏諱としていて下に「兼」の字を通字として用いているのだが、名字が書かれることがないせいで、どの家の人物なのかわからないことが多い。花押についても当主から下賜されていたのではないかとされている。


彼らが何者なのかについては

在地領主山室氏説
 (「戦国大名北畠氏の権力構造:特に大和宇陀郡内一揆との関係から」西山克)
一族の誰か説
 (「伊勢国司北畠氏の発給文書について」中野達平) 
一族でも在地領主でもない説
 (「伊勢国司北畠氏の花押」小林秀)


……と説が多数ある。


現状わかる範囲だと

雅兼→北畠雅兼。一族。
勝兼→山室勝兼と花押が一致しているので山室勝兼と見られている。
親兼→河方親兼という一族がいるが、名前が一致しているだけ…?
方兼→親兼と同一人物?
国兼→?
教兼→「佐藤家文書」では垂水宮内大輔教兼書となっているので垂水?他にも藤兼という人物もいて兼を通字にしていた家の可能性がある。
房兼→?


こんな感じだろうか。

今のところは書籍や論文を読む感じだと、奉書を出す奉行人については山室氏として扱われていることが多い。

 

 

◎まとめ
伊勢国司は通称。木造氏が北畠と呼ばれていたため区別するため呼ばれた。
・当主は本所と呼ばれ、隠居すると大御所と呼ばれる。
・官位は大納言まで昇進可能。
伊勢守護職に補任されている。ただ罷免されたり再任したりした。材親が任じられたのが最後。
・領国は南伊勢五郡大和国宇陀郡志摩国、熊野地域一部、伊賀国一部はよくわからん。
・本拠地は多気。多芸とも書く。もちろん芸が多いという意味ではない。
・木造氏、大河内氏、坂内氏、田丸氏が有力一族。ほぼ当主の子弟が養子に入る。
国司奉行人(公方奉行人)が奉書を出す専門の家臣がいた。どの家の人かはよくわからん。

 

 

 

参考文献
三重県史 通史編中世』
三重県史 資料編中世1~3』
三重県史資料編近世1』
伊賀市史 第四巻資料編古代中世』
『沢氏古文書 第一』
『勢州軍記』(続群書類従 第21輯ノ上 合戦部)
『伊勢北畠氏と中世都市・多気美杉村教育委員会 
『北畠氏の研究(復刊)』大西源一
室町幕府と地域権力』大薮海
『戦国貴族の生き残り戦略』岡野友彦
『列島の戦国史2 応仁・文明の乱と明応の政変』大薮海
天正伊賀の乱和田裕弘中公新書 2021年
伊勢国司北畠氏の研究』藤田達生
『新版県史 三重県の歴史』勝山清次・飯田良一・上野秀治・西川洋・稲本紀昭・駒田利治編
九鬼嘉隆―戦国最強の水軍大将―』鳥羽市教育委員会
戦国大名北畠氏の権力構造:特に大和宇陀郡内一揆との関係から」西山克
伊勢国司北畠氏の発給文書について」中野達平
伊勢国司北畠氏の花押」小林秀
「戦国時代の土豪と在地寺院・「徳政」:伊勢国一志郡小倭郷を事例に」水林純
伊勢国司北畠氏の神三郡支配に関する一試論」小林秀
「伊勢北畠氏家督の消長」吉井功兒


戦国大名伊勢北畠氏の文献リスト
https://dainagonnokura.hatenablog.jp/entry/2023/05/01/221137

 

 

戦国大名伊勢北畠氏の文献リスト


伊勢北畠氏関係(戦国期)の文献リスト

(他にも北畠氏に触れている書籍はあると思う)

 

素人が掘れる範囲で掘ったもんです。足りない部分は各自で追加していってください~。


●書籍
天野忠幸『松永久秀と下克上』(平凡社 二〇一八年)
 (…三好氏の宇陀郡侵攻経緯など)
池上裕子『織田信長』(吉川弘文館 二〇一二年)
上野秀治編『伊勢神宮織豊政権』(『近世の伊勢神宮と地域社会』岩田書院 二〇一五年)
大西源一『北畠氏の研究(復刊)』(北畠神社 一九八二年)
大薮海『室町幕府と地域権力』(吉川弘文館 二〇一三年)
 (…伊勢北畠氏に関する多くの論文が掲載されている)
大薮海『応仁・文明の乱と明応の政変』(吉川弘文館 二〇二一年)
 (…応仁の乱での伊勢国の戦乱など)
岡野友彦『戦国貴族の生き残り戦略』(吉川弘文館 二〇一五年)
 (…久我氏と木造荘についてなど)
勝山清次・飯田良一・上野秀治・西川洋・稲本紀昭・駒田利治編『新版県史 三重県の歴史』(山川出版社 二〇一五年)
加地宏江『伊勢北畠一族』(新人物往来社 一九九四年)
金松誠『松永久秀』(戎光祥出版 二〇一七年)
 (…三好氏の宇陀郡侵攻など)
神田裕理編『ここまでわかった戦国時代の天皇と公家衆たち【新装版】』(文学通信 二〇二〇年)
 (…伊勢北畠氏についての章がある)
久野雅司『足利義昭織田信長』(戎光祥出版 二〇一七年)
 (…上洛後の織田信長の立ち位置などが学べる)
久野雅司編『足利義昭』(戎光祥出版 二〇一五年)
黒嶋敏『海の武士団』(講談社選書メチェ 二〇一三年)
呉座勇一『応仁の乱』(中公新書 二〇一六年)
小林孚『多芸国司史料集1500年代ノート』(多芸国司研究所 二〇〇〇年)
 (…史料がかなりの点数掲載されている。三重県図書館にあるが貸出は禁止。)
斎藤拙堂『伊勢国司記略』(拙堂会 一九三三年)
柴裕之編『織田氏一門』 岩田書院 二〇一六年
柴裕之『清須会議―秀吉天下獲りへの調略戦―』(戎光祥出版 二〇一八年)
 (…本能寺の変後の北畠信雄を取り巻く情勢など)
柴裕之編著『図説 豊臣秀吉』(戎光祥出版 二〇二〇年)
高橋成計『織田信長の伊賀侵攻と伊賀衆の城館』(アメージング出版 二〇二一年)
谷口克広『織田信長合戦全録』(中公新書 二〇〇二年)
谷口克広『信長軍の司令官』(中公新書 二〇〇五年)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(中公新書 二〇〇七年)
谷口克広『信長と将軍義昭』(中公新書 二〇一四年)
中田正光『伊達政宗の戦闘部隊』(洋泉社 二〇一三年)
服部哲雄・芝田憲一『三重・国盗り物語』(伊勢新聞社 一九七三年)
藤田達生編『伊勢国司北畠氏の研究』(吉川弘文館 二〇〇四年)
平山優『戦国の忍び』(角川新書 二〇二〇年)
 (…北畠氏にも関連してたびたび登場する「忍び」などが学べる)
平山優『戦国大名と国衆』(角川選書 二〇一八年)
松浦武、松浦由起『「武功夜話」研究と三巻本翻刻』(おうふう 一九九五年)
村井祐樹『六角定頼』(ミネルヴァ書房 二〇一九年)
和田裕弘織田信長の家臣団』(中公新書 二〇一七年)
和田裕弘織田信忠』(中公新書 二〇一九年)
和田裕弘天正伊賀の乱』(中公新書 二〇二一年)

●追加(2024年2月)
九鬼嘉隆と九鬼水軍』豊田祥三(戎光祥出版 2023年)

●論文等
赤坂恒明「永禄六年の『補略(ぶりゃく)』について:戦国期の所謂公家大名(在国公家領主)に関する記載を中心に」(埼玉学園大学紀要11巻 二〇一一年)
赤坂恒明「元亀二年の『堂上次第』について―特に左京大夫家康に関する記載を中心に―」(十六世紀史論叢1号 二〇一三年)
赤坂恒明「天正四年の『堂上次第』について―特に滅亡前夜の北畠一門に関する記載を中心に―」(十六世紀史論叢2号 二〇一三年)
池上裕子「伊勢北畠領の人夫役と請状」(戦国史研究24号 一九九二年)
伊藤裕偉「中世後期木造の動向と構造-北畠氏領域における支城形態の一事例-」(Mie history Vol.7 一九九四年)
稲本紀昭「伊勢国国人愛洲氏について」(ふびと43号 一九八六年)
稲本紀昭「北畠国永『年代和歌抄』を読む」(史窓65巻 二〇〇八年)
稲本紀昭「北畠一族小原氏補考」(三重県史研究29号 二〇一四年)
大河内勇介「戦国期の徳政と地域社会」(史林95巻第6号 二〇一二年)
大薮海「北畠氏の神三郡進出―『宏徳寺旧記』収載文書への検討を通じて―」(寺社と民衆9号 二〇一三年)
小川雄「織田権力と北畠信雄」(『織田権力と領域支配』岩田書院 二〇一一年)
小井戸守敏「〈翻刻『伊勢軍記』〉」(人間生活文化研究29号 二〇一九年)
小林秀「伊勢国司北畠氏の神三郡支配に関する一試論」(史叢38号 一九八七年)
小林秀「戦国期における畿内近国大名の権力構造」(『三重―その歴史と交流』一九八九年)
小林秀「伊勢国司北畠氏の花押」(三重県史研究 9号 一九九三年)
小林秀「北畠氏家臣澤氏の系譜再考」(三重の古文化83号 二〇〇〇年)
河内将芳「(天正三年)五月二十二日 織田信長黒印状写」(奈良史学37号 二〇二〇年)
柴裕之「織田信雄の改易と出家」(日本歴史859号 二〇一九年)
中野達平「伊勢国司北畠氏の発給文書について」(『中世古文書の世界』一九九一年)
中野達平「久我家領伊勢国木造荘と北畠家について」(國學院雑誌97号 一九九六年)
西山克「伊勢神三郡政所と検断(上)」(日本史研究182号 一九七七年)
西山克「伊勢神三郡政所と検断(下)」(日本史研究183号 一九七七年)
西山克「戦国大名北畠氏の権力構造:特に大和宇陀郡内一揆との関係から」(史林第62巻第2号 一九七九年)
舩杉力修「戦国期における伊勢神宮外宮門前町山田の形成」(歴史地理学 第40巻第3号 一九九八年)
水田義一「紀伊半島南端の国境変遷と画定」(二〇一七年度日本地理学会春季学術大会)
水谷憲二「北伊勢地域の戦国史研究に関する一試論」(佛教大学大学院紀要 文学研究科篇40 二〇一二年)
森田恭二「大和宇陀郡国人の動向--秋山・沢氏を中心に」(帝塚山学院大学日本文学研究39号 二〇〇八年)
吉井功兒「伊勢北畠氏家督の消長」(『中世政治史残篇』トーキ 二〇〇〇年)」

加藤益幹「織田信雄奉行人雑賀松庵について」(『小牧・長久手の戦いの構造』)

金子拓「春日社家日記のなかの織田信長文書-大和国宇陀郡の春日社荘園と北畠氏に関する史料-」(『織田信長権力論』)

加藤益幹「織田信雄尾張・伊勢支配」(『戦国期権力と地域社会』)

 

※出典をメモし忘れたもの(NDLで検索したら出る…?)
伊勢国国人長野氏関係史料(上)」稲本紀昭
伊勢国国人長野氏関係史料(下)」稲本紀昭
「伊勢長野氏家譜・伊勢長野九族略系にみる中世文書」水野智之
織田信包の基礎的研究」渡邊大門
「戦国期伊勢神宮における公・武祈祷」飯田良一
三重県立図書館所蔵「北畠物語」(上)」嶋野恵里佳
三重県立図書館所蔵「北畠物語」(中)」嶋野恵里佳
三重県立図書館所蔵「北畠物語」(下)」嶋野恵里佳
「戦国期織田政権の津湊支配について」柴辻俊六
「戦国時代の土豪ち在地寺院・「徳政」-伊勢国一志郡小倭郷を事例に-」水林純
伊勢国北畠家臣団小倭郷一揆」臼井文一
「伊勢御師戦国大名の関係について」小林郁
織豊政権伊勢神宮」小林郁
伊勢国司北畠氏の祈願寺 延命寺の変遷」清水勝也
「豊臣政権成立期の織田信雄とその家臣-滝川雄利文書の検討を中心に-」西尾大樹

 

自治体史・事典・図録等
三重県史資料叢書北畠氏関係資料』
三重県史』 通史編「中世」
三重県史』 資料編「中世1~3」
三重県史』 資料編「近世1」
四日市市史』 通史編古代中世 
『愛知県史』 通史編3「中世2・織豊」
『愛知県史』 資料編10「中世3
『愛知県史』 資料編11「織豊1」
玉城町史』(三重県郷土資料刊行会 一九八三年)
玉城町史』(玉城町史編纂委員会編 一九九五年)
松阪市史』
伊勢市史』
木曽川町史』
蟹江町史』
新宮市史』
尾鷲市史』

福井県史 資料編2中世』

伊賀市史 第四巻資料編』
『伊勢北畠氏と中世都市・多気』(美杉村教育委員会 二〇〇一年)
九鬼嘉隆―戦国最強の水軍大将―』(鳥羽市教育委員会 二〇一一年)
『寺院に伝わる戦国の群像~北畠氏のいた時代~』(三重県総合博物館 二〇二一年)
阿部猛、西村圭子編 『戦国人名辞典』(新人物往来社 一九九〇年)
野島寿三郎編 『公卿人名大事典』 (日外アソシエーツ 一九九四年)
谷口克広 『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館 二〇一〇年)
谷口克広著・高木昭作監修『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館 一九九五年)

●追加(2024年2月)
重要文化財 佐藤家文書の世界 −動乱の時代を生きる−』(石水博物館 2021年)

 

●史料関連
『勢州軍記』『信長公記』『甲陽軍鑑』『足利季世記』『細川両家記』
『沢氏古文書』『大乗院寺社雑事記』『多聞院日記』『言継卿記』『宣胤卿記』
『内宮子良舘記』『外宮子良舘記』『異国叢書〔第3〕耶蘇会日本通信下巻』
寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』『織田信雄分限帳』


●インターネット
・「「勢州軍記」を読もうぜ!」水上千年
・「伊勢の名門北畠氏の光と影~なぜ国司は滅んだのか~」らいそく信長戦国古文書解読サイト 
三重県ホームページ 県史Q&A
  「伊勢国司北畠氏の特徴」
  「神戸氏の盛衰」
  「星合氏の概略」
  「したたかに生きた戦国武将-簡素な構図 北畠政勝像」

 

伊勢北畠氏史料リストを作ってみました

 

伊勢北畠氏の史料リストを作りました!

 

といっても十六世紀のだけですけどね。
国司兄弟合戦から天正十年頃まで。

 

詳しい方が御覧になったら「あれがない」「これがない」となる思います。

その辺は素人のおじさんがえっちらおっちら作ったものなので勘弁してやってください。

「こういうのは無いよりはあった方がいいでしょ~」くらいのノリで作ってみたものなので!
(足りないものは自分で追加していっちゃってください)

 

BOOTHにPDF版を置いておくのでPIXIVのアカウントある人はどうぞ。
https://dannoura2022.booth.pm/items/4730807

 

※2023年7月

沢氏古文書なんかのがごっそり抜けていたので追加しました!5~6Pくらい増えてます

 

 

30Pあるはず。

誰かが伊勢北畠氏について調べる時に役立つことを願います!

 

※2023年8月修正