- ◯1536~1540 六角氏の北勢進出
- ◯1542 蟹坂合戦
- ◯1547~1551 鷺山合戦・八太の長陣
- ◯1555~ 1557 六角氏と神戸氏の争い
- ◯1558~1560 神戸氏、関一党、長野氏の従属
- ◯1560~1562 三好氏相手に共闘する
- ◯1563~1564 北勢を巡る争いが勃発
- ◯1564 『伊勢記』での永禄七年
- ◯1565 大混乱の北伊勢
- ◯1566 北伊勢へ進出し続ける織田信長
- ◯1567 織田信長の北勢侵攻
- ◯1568 北畠氏、織田信長との戦争へ
○まえがき
以前書いた同人誌やブログでも永禄年間の北伊勢はよくわからんと書いとったんですが、とりあえず現時点で調べてわかった範囲でまとめておこうと思います。
前回調べた時によくわからなかった点
↓
北畠氏と六角氏は婚姻関係を結んだ親戚同士でした。北畠具教の正妻は六角定頼の娘で、先行研究では長野氏と敵対する両家が手を組んだのではないか?と推測されていました。もしくは蟹坂合戦で和睦した際に嫁いだという話もあります。
いずれにせよ具教嫡男の具房の母は六角定頼の娘で、両家は縁戚関係でした。北畠国永の書いた『年代和歌抄』でも六角母堂(具教正妻の母?)の遠行について触れているので一族同士の交流なんかもあったのではないかとも推測できます。
しかし『勢州軍記』では永禄年間の北伊勢で関一党と長野氏が互いを滅ぼそうと争っていたとなっています。永禄年間には関一党は六角氏に、長野氏は北畠氏に従属する存在でした。もしそんな事態になっているなら両家のケツ持ちやっとる六角も北畠も支援しないはずはなく、両家の関係も敵対しているはずです。
このあたりの事情がなんかわからんかなーと思っていたところ、『伊勢記』(軍記物)や『伊勢国司伝記』に結構いろいろ詳しく書いてあったので、同時代史料と組み合わせてなんか上手い事やれば辻褄が合わんか?となった訳です。
『伊勢記』は勢州軍記を書いた神戸良政が晩年に完成させた軍記物で、『勢州軍記』のパワーアップキット版のような物になります。
(『勢州軍記』から追加されてる部分や変更されている点が結構ある)
『伊勢国司伝記』は江戸時代初期のもので、北畠具教や信雄に使えた奥山左馬允の妹の子供が聞いた話を記したとされる史料です。
これらの史料と
分部左京亮宛の六角義弼書状
分部左京亮宛の織田信長書状
直江大和守宛の織田信長書状
なんかの同時代史料を組み合わせると、概ね『伊勢記』の内容が実態と近いのではないかと考えるようになりました。
あくまで素人の想像なのですけどね。
ーーーーーーーー
というわけで、年ごとに起きたとされる出来事を『伊勢記』や同時代史料、先行研究などを基に書いていきます。
どうしても主観が入ってしまうので、あくまで素人の駄文と思って読んでね。
ーーー永禄以前の北伊勢ーーー
◯1536~1540 六角氏の北勢進出
十五世紀の後半以降、長野氏は北伊勢へと勢力を拡大し荘園の横領等を繰り返しました。永正七年(1510)には桑名をも占拠しています。
しかし天文五年(1536)になると梅戸氏が桑名の知行を望むようになりました。これは梅戸氏には当時幕府内で主導的な役割を果たしていた六角定頼の弟である高実が養子入りしていた事が強く影響しており、また六角氏が桑名知行へ積極的に介入した理由は桑名が近江保内商人の重要な仕入れ先であったことによるとされています。
長野氏はこれに反発し長島の願証寺に仲介を頼んで共同知行(兼帯)という形に持ち込みますが、天文七年(1538)には長野稙藤が単独での知行を諦めきれず梅戸氏と対立。天文九年(1540)に六角定頼が自ら出馬して長野氏を桑名から駆逐しました。
ただ六角氏の北勢進出は必ずしもスムーズではなく、北勢諸侍からの抵抗もかなり受けていたようです。
関一党や梅戸氏、大木氏は六角氏に味方していたようですが、千草氏、朝倉氏、横瀬氏らが当初は敵対しています。天文九年四月の攻勢で彼らは六角氏に従うようになりましたが、九月の攻勢では関一党へ合力した戦いで長野氏に敗退しています。
この時の史料では名前が見えませんが横瀬や朝倉のすぐ南には赤堀一族や楠氏、神戸氏がいます。彼らだけがこの抗争に無関係であったとは考えられません。『伊勢記』によると横瀬、濱田、赤堀、楠木以下は神戸に属していたようなので神戸氏を中心に彼らは対六角で一味同心して動いたでしょう。
そして神戸氏と長野氏は互いに娘を嫁がせて婚姻関係を結んでいました(神戸長盛の妻は長野の娘、長野藤定の妻は神戸具盛の娘)。つまり長野氏とも対六角の共同戦線を張っていた可能性が考えられます。
加えて神戸具盛は北畠材親の弟(晴具の弟説もある)です。北畠氏が神戸氏を放置するとは思えません。
◯1542 蟹坂合戦
天文十一年(1542)九月、北畠氏が悪党どもを近江六角氏領へ差し向けましたが、六角氏重臣の山中秀国がこれを追い払いました。
しかし今度は北伊勢の武士たちが一揆を起こし山中へ侵攻するとの噂が流れ始めたことから山中秀国は「これは国司の謀略です!」と六角定頼に報せ、六角氏は甲賀、粟太、蒲生三郡の旗頭衆に山中への出陣を命じます。
翌十月、北畠勢は木造具国(具国は具の旧実名なので、たぶん時期的に木造具康?)を大将に一万余で鈴鹿口より近江へと侵攻しました。
これを聞いた六角勢は山中から蟹坂へと移り北畠勢を待ち受けます。蟹坂で六角勢が待ち構えていることを知らなかった北畠勢は不意を突かれる形となり、一度退いて立て直そうとしますが混乱を止められず敗退しました(蟹坂合戦)
その後は公方(将軍)の斡旋で両者は和睦。鈴鹿峠の上を六角・北畠の国境と定めることになり、さらに六角氏の娘を北畠具の嫡男具教に嫁がせることが決まりました。
『淡海恩故録』という江戸時代の史料にある合戦で、同時代史料には見えないものなのでどこまで事実かはわかりません。
ただ天文九年の北勢情勢を考えると、六角氏の北勢進出によって桑名を失った長野氏や圧迫を受ける神戸氏、北勢諸侍らに頼られた結果、北畠氏が六角氏打倒のために起こした戦いがこの蟹坂合戦だったのかもしれません。まぁあくまで推測ですが。
天文十二年(1543)には長野が誰かと合戦をしたことが『多聞院日記』に記されています。『伊勢記』では翌年に長野氏が田丸兵と戦ったとあるので相手は北畠氏かもしれません。蟹坂合戦での和睦が納得できなかったのでしょうか。
天文十三年(1544)には「(北伊勢は)少弼持ち候所」とされているので、畿内では北伊勢は六角の影響下にあると認識されていたようです。
◯1547~1551 鷺山合戦・八太の長陣
天文十六年(1547)に北畠氏と長野氏の戦いが起こりました。発端は長野氏重臣の家所氏が謀反を起こし、それを北畠氏が支援したことでした。この戦いは長期戦となり少なくとも天文二十年(1551)までは続いています。
『伊勢記』では天文二十二年から二十三年(1553〜1554)にも合戦して互いに勝ったり負けたりしていたらしいので、もしかすると戦争が継続していたか、そうでなくても間をおいて戦争をしていたようです。
◯1555~ 1557 六角氏と神戸氏の争い
弘治元年(1555)、六角氏が小倉三河守を北勢に派遣して千草城を攻めました(『伊勢記』)。
千草氏は天文九年には従ってたような気がしますが離反したようですね。攻められた千草城は六角勢の攻撃に耐え抜き落ちませんでした。
六角氏は作戦を変え、重臣の後藤但馬守の子息(舎弟?)を千草氏へ養子に出すことで和議を結びました。
千草氏が六角に属すると萱生氏らを始めとする周辺領主らも六角に属するようになりました。また関一党は内々に六角を援けていたようです(関は天文九年段階でも六角に付いている)。
弘治三年(1557)には六角勢が柿城へ侵攻。柿城の沼木氏(沢木?)は神戸氏に属していたので神戸利盛はこれを一千余の軍勢で後詰しています。
しかし神戸家老の佐藤中務父子が寝返り、神戸城から主君の妻子を追い出して小倉三河守を誘い入れてしまいます。
本拠を奪われた神戸氏は困ってしまいますが、佐藤の執事だった古市輿助が佐藤を裏切り鬼神岡城(岸岡城。佐藤の城)を奪って神戸に明け渡してくれたことで鬼神岡城へと入り、その後は長野藤定の加勢を得て神戸城を取り返しています。(佐藤は誅殺され、小倉三河守は近江へと退却しましたが土民に殺されました)
ここまでをまとめると…
十五世紀後半以降は長野氏が北勢に勢力を拡大していましたが、天文年間の六角氏の北勢進出により桑名支配から脱落。
北勢の武士たちも六角方と反六角方に分かれていたようで、各地で戦いが繰り広げられています(反六角の中心にいたのは神戸氏と長野氏?)。
天文十一年(1542)には北畠氏が北勢の武士たちと協力して六角領内へ侵攻しますが、蟹坂合戦で敗退してしまいます。この時、北畠具教が六角定頼の娘を娶って、国境を鈴鹿峠とすることで和睦しました。
その後しばらくは六角氏が北勢で軍事行動を起こしている様子は見えませんが、『伊勢記』(や『勢州軍記』)によると弘治年間(1555〜1557)には北勢進出を再開したようです。
構図としては六角氏&関氏vs神戸氏&長野氏になっています。
ただ神戸氏は勇戦してはいるものの千草氏は六角へ従うようになり、家老の裏切りも発生しています。長野氏は北畠氏とも抗争状態にあったようなので、両家ともかなり苦しい状況でした。
ーーーー永禄年間の北伊勢ーーー
ここからが本題の永禄に入ります。
◯1558~1560 神戸氏、関一党、長野氏の従属
永禄元年〜永禄二年(1558〜1559)
六角氏と北勢で争っていた神戸氏でしたが、さすがにこれ以上の抵抗は難しいと判断したのか、神戸氏は六角氏に従うようになりました。永禄二年(1559)〜永禄三年(1560)頃、神戸氏と関一党は六角重臣の蒲生氏の娘を娶り、六角氏に一味します。(『伊勢記』)
神戸氏では当主の利盛が急死したため弟の友盛が還俗して家督を継ぎました。その後は長野氏とは手を切ったようで神戸氏は関一党と組むようになっています。(神戸氏は利盛、友盛の祖父具盛が北畠材親の弟(晴具の弟説もある)ですので元々は北畠の一味でしたが、この時には関係が切れていたようです)。
関一党、神戸氏を従属させた六角氏ですが、北伊勢一円を支配したわけではなかったらしく、三重郡、朝明郡には北畠氏に属している者もいたらしい(『伊勢記』)。
一方の北畠氏もついに宿敵の長野氏を従属させる事に成功しました。長野氏は長年共闘してきたであろう神戸氏を失い、周囲が全て敵になる状況でした。北からは六角方の勢力が迫り、南からは北畠氏の勢力が迫る。永禄元年(1558)には細野城が攻められ、翌永禄二年(1559)には長野城が攻められます。もうどうしようもありません。長野藤定(輝伯)には後継者がいなかったので、北畠具教の若君(次男の次郎具藤)を養子に入れて跡を継がせました。
北畠も六角もお互い勢力を拡大したのですが、結果として北畠と六角の境目がゴチャゴチャしてしまいました。特に長野氏と関一党は後に互いを滅ぼそうと争い始める関係ですから、ケツ持ちである北畠と六角もちょっと関係が怪しくなってきたのではないかと思います。
◯1560~1562 三好氏相手に共闘する
永禄三年〜永禄五年(1560〜1562)
北伊勢での関係の悪化が懸念された北畠氏と六角氏でしたが、それどころではなくなります。
三好氏の大和国侵攻です。永禄三年には北畠氏は三好方に大和国宇陀郡を奪われ、本国への侵攻をも危惧されるなど予断を許さない状況となってしまい北伊勢どころではなくなってしまいました。
一方の六角氏の方では北近江で浅井氏が離反。さらに三好氏とも戦うべく京都へ出陣し、関盛信や神戸友盛らの北伊勢の侍たちもこれに参陣したようです(『伊勢記』)
『伊勢記』では永禄五年(1562)二月に北畠氏に援軍を請い、四月に北畠具房が使いを派遣としたようです。(軍勢は出してなさそう)。援軍を求めているということはこの段階では両者の関係は協力関係にあったと見てよさそうですね。
六角氏は永禄五年の六月まで在京したましたが、和睦がまとまり帰国しました。
北伊勢に関しては三好氏という共通の敵が出現したことで一旦は棚上げになったようです。
◯1563~1564 北勢を巡る争いが勃発
永禄六年〜永禄七年(1563〜1564)
三好の脅威が去ったことで北畠氏と六角氏の間で北伊勢をめぐる紛争が発生します(といっても三好と和睦したのは六角だけのようですが…)。
『伊勢記』によると永禄七年(1564)の段階で「伊勢国司与近江六角不快乎」となっていて関係が悪化していたっぽい。従属する長野氏と関一党が互いを滅ぼそうと争っていたようなのでそれはそうなるのでは。
永禄六年(1563)には長野領で反乱が起きていたらしく、吉田兼右が「国司と長野が合戦してて道が通れない」と日記に記しています。
そして『伊勢国司伝記』によると長野家中は「北畠派の家所氏・雲林院氏」「六角氏と通じている細野氏・草生氏」「織田氏と通じている分部氏・河北氏」という分裂状態だったようです。ということは反乱を起こしていたのは分部、河北、草生、細野あたりと考えられますね。
それを裏付けると思われる史料が分部左京亮宛の年未詳二月六日付六角義弼書状です。
この書状には「近いうちに尾州衆(織田)がそちらへ出陣するようです。喜ばしいことです。頑張り時ですよ!北方衆(北伊勢)にも手紙を出しました。詳しくは関安芸守が伝えます。」みたいなことが書いてあります。
ここからわかることは…
・織田信長が分部左京亮(長野重臣)を助けるために出陣しようとしていた。
・六角義弼は織田信長の出陣を喜んでいる。
・分部左京亮は織田にも六角にも内通している。
この史料は年未詳ですが、永禄六年のものではないかと思ってます。織田信長は永禄五年に和睦するまでは美濃斎藤氏(一色)と戦っており、その前は今川と戦っていることから伊勢へ出陣する余裕はないと思いますし、この年よりも後になってくると今度は義弼が永禄八年に名前を義治に変えてしまうのでおかしくなる。なのでおそらくはこの書状は永禄六年なんだと思います。たぶん。(犬山織田とは戦ってたっぽい?)
ちょうどこの書状が送られた二月には北畠氏が志摩国にも出兵しています。
おそらく志摩出兵中の北畠氏を挟撃する形で反北畠派の長野家臣らが反乱を起こし、さらにそこへ織田勢や六角方の軍勢が攻めてくる手筈だったのでしょう。北畠氏の置かれた状況はかなり厳しいものでした。
しかし信長の伊勢出陣が行われた形跡はありません。義弼が手紙を出した二月には美濃国で竹中半兵衛による稲葉山城乗っ取り事件が発生しているのです。信長にとっては伊勢よりも美濃の方が優先順位が高いでしょうから伊勢出陣は取りやめた可能性が高いのではないかと思います。信長は翌年十一月に分部左京亮へ「あなたのことは見放さない!」と伝えていますから、分部からすると放置されていた状況だったということでしょう。
結局、長野氏家臣と北畠氏の争いは勧修寺尹豊の斡旋により永禄七年のうちに和睦となりました。その後の北畠氏は長野氏への支配を強めようとして長野氏の領国支配に「本所(北畠当主)の御意」を必要とするような体制へと変化させています(たぶん余計に反発を招いたのではないでしょうか……)。
なお六角氏は何をしていたかというと、永禄六年(1563)の十月に観音寺騒動が発生。六角義弼が重臣を殺害して大問題に発展してしまい軍事行動どころではなくなっています。
なにしてんだ義弼……
◯1564 『伊勢記』での永禄七年
永禄七年(1564)
『伊勢記』によると永禄七年の情勢について
・長野氏と関一党が互いを滅ぼそうと争っていた(長野領の雲林院が関一党の攻撃を受けたらしい)。
・三重郡、朝明郡の武士たちの中には北畠氏に味方した武士がいた。
・赤堀氏や楠氏らは神戸氏に味方した。
・長野氏が赤堀城を攻め、北畠氏は援軍を派遣するが敗退。
同時代史料では上でも書いたように長野氏領内で反乱が起こっていました。分部左京亮が織田信長に助けを求めていたようですが信長が出陣した形跡はなく、公家が斡旋して和睦となっています。
つまり構図としては…
反北畠派の長野氏重臣や志摩国衆
関一党や神戸氏ら
それらを支援する六角氏、織田氏
vs
北畠派の長野氏重臣や志摩国衆
北畠派の北勢の武士
それらを支援する北畠氏
という形になります。
ただ『伊勢記』にある永禄七年の長野氏による赤堀城攻めが少し謎ではあります。長野領で反乱が起きている最中に船で赤堀城まで攻撃を加えに行くものでしょうか?三重郡、朝明郡にも北畠派がいたようなので救援などの目的があったのかもしれませんが、ちょっと謎です。もし実際にあった出来事だとすると長野具藤が率いていたんでしょうか。
(単純に『伊勢記』が年代を間違えてる可能性もありますが)
◯1565 大混乱の北伊勢
永禄八年(1565)
『伊勢記』ではこの年に
・春に長野氏が赤堀城を攻めるが敗退。
・八月には塩浜合戦があり、神戸勢が勝利し長野勢が敗退した。
・関一党は北伊勢六郡で威を振るい千草、神戸、濱田、赤堀、楠、峯、南部、萱生以下が一味した。しかし関(亀山の本家)、神戸、峯の三家で諍いが起こって内輪で合戦したことで北勢の一統はならなかった。
……となっています。
長野氏と神戸氏が争っていたようですが長野氏が敗れ、その後勢力を強めた関一党も内部分裂していて混乱具合に拍車が掛かっています。
同時代史料では(永禄八年)九月九日付直江大和守宛の信長書状で織田信長が「勢州辺まで形の如く申し付けた」と書いてます。つまり永禄八年の段階で織田信長の影響力が既に北伊勢へとかなり及んでいたようです。
六角氏が観音寺騒動の後処理に追われる間にその隙間へと浸透していったのでしょうか?関一党による一統未遂からの内輪揉めで混乱していたはずですから、北伊勢の武士たちの中に織田を頼るという選択肢をとった者もいたのでしょう。
この年の五月には京都で永禄の変が起こりました。将軍足利義輝が三好義継によって殺害されてしまい、その後はなんやかんやあった末に弟の足利義昭を六角氏が近江国で保護しました。
そして足利義昭を将軍にするための上洛計画が六角、織田、朝倉といった大名を中心に進んでいくことになります。
なりますが……
北伊勢をめぐって六角、織田、北畠は対立していました……
◯1566 北伊勢へ進出し続ける織田信長
永禄九年(1566)
『伊勢記』によるとこの年の春には織田信長が滝川一益を魁として北伊勢へ遣わし桑名郡と員弁郡を幕下に収めたようです。
「北伊勢衆は或いは国司に属し、或いは六角に属して戦った。なので信長は乗じてこれを取り込もうとした。北伊勢衆に或いは攻め、或いは和を用いて桑名、員弁両郡の侍を織田の幕下に収めた。」
前年の直江大和守宛の書状の内容と一致します。つまり織田信長が永禄十年より以前から北伊勢に勢力を浸透させつつあるという『伊勢記』の内容には信憑性があります。
しかし足利義昭の上洛について協力しないといけないはずの織田と六角と北畠が北伊勢でずっと揉めています。
足利義昭の上洛は実際に行われた永禄十一年の前にも永禄九年と十年に計画があったとされており、その計画について大覚寺義俊が織田尾張守以外に「三州・濃州・勢州出勢必定」と伊勢からも軍勢が義昭支援のために出兵する予定だと伝えています(『多聞院日記』)。勢州というのは北畠氏のことだと思うのですが……この話が出ていた段階では北勢を巡る抗争は一旦は棚上げとなっていたのでしょうか……『伊勢記』を信じるならとてもそんな状況ではなさそうですが……(´・ω・`)
ただ結局この永禄九年の上洛計画は実行されませんでした。八月に六角氏の叛意を察知した義昭が若狭、越前へ逃走。信長も美濃斎藤氏との争いを再開させ、六角氏は十二月になると三好方への転属を露わにします。
『伊勢記』では「足利義栄が細川信良を右京大夫に任じたことで六角と和睦した」となっています。細川六郎(信良)は六角定頼の外孫であり、これによって阿波公方と六角義賢父子が和睦。六角義弼は義昭を討たんとした。(伊勢記ではなぜか永禄十年のこととして書いてますが永禄九年のことでしょう)。
ちなみに六角氏は永禄九年の七月から九月にかけて浅井氏と近江で戦っていますが、六角氏が敗れています。観音寺騒動以降、六角氏の衰退は歯止めがかからず相当深刻な状態だったようで、北伊勢へ出兵するどころではなさそうです。
◯一旦まとめ
永禄六年(1563)の段階では六角氏と織田氏が連携して反北畠派の長野重臣(分部氏ら)を支援し、北畠氏と対立するような構図でした。
しかし永禄八年(1565)頃からは北伊勢の武士が織田氏を頼るようになったのか、織田の勢力が北勢へと浸透し始めました。
関一党が北勢を一統する勢いだったようですが、結局は内輪揉めを起こしてしまいます。それに対して六角氏が有効な策を打てず、北勢の武士たちが織田氏を頼るのを許してしまったのではないかと思われます。
北畠氏は反北畠派の長野氏重臣と和睦し、関一党や神戸氏と戦う長野氏の北勢出兵を支援しつつ、長野氏への支配を強めようとしています。
永禄九年(1566)の春になっても織田氏は北伊勢での活動を止めてはいません。北伊勢を六角氏から奪うような形になっています。
足利義昭の上洛計画によって一旦は棚上げにはなりそうな気配がありましたが、結局この年の内に六角氏は三好方へと転属したので問題は問題のまま。しかも上洛には近江ルートだけでなく伊勢ルートも検討されていたので信長は北勢を制圧する必要性が出てきました。そもそも北伊勢は本国尾張の隣ですしね。
北伊勢で揉めてたのも北畠と六角が義昭支援で織田と連携できない理由の一つだったようで、『伊勢記』によると永禄十一年の上洛の時点でも北畠氏も六角氏も「織田に北伊勢を取られたことを遺恨に思っていた」ようです(「六角家及伊勢国司家当春信長依攻取北伊勢会遺恨也」)。
織田からすると「そもそもお前らが北伊勢をまとめられなかったんやろがい」って感じかもしれません。織田を頼った人物として史料上で見えるのはとりあえず長野重臣の分部左京亮だけっぽいですが、きっと他にも織田を頼った北伊勢武士たちはいたでしょうからね。
◯1567 織田信長の北勢侵攻
永禄十年(1567)
春に北畠氏が志摩の九鬼嘉隆を攻めたようです。その後、嘉隆は志摩を逃れて織田信長と通じます。(『伊勢記』)
四月には滝川一益が北伊勢に禁制を出しています。再び織田勢の北勢侵攻が行われていたようです。
八月には織田信長が数万の軍兵を率いて北伊勢、桑名表を攻撃。各地を放火します。この戦いで南部、萱生、梅戸、富田、楠らが織田の幕下に収まったようです。この時点で北勢諸侍が次々と六角氏を見限っています。
さらに信長は神戸領内の高岡城の人屋に放火し城を攻めます。しかし城主の山路弾正忠が防戦に励み城は落ちませんでした。
信長は滝川を押さえとして置いて北伊勢からは一旦は兵を引きます。(『伊勢記』)
北畠氏の方では六月に領国内の来迎寺へ禁制を出し、重臣の沢源五郎宛の具教書状にも「就今度不慮之粉」という文言が出てきます。七月朔日付けの長野藤定の感状もあるので六月頃に北畠氏領国内で何かしらの問題が起きています(十月には公家の久我氏に対して「当国物言い共にて取り乱れ…」と伝えています)。
何があったんでしょうね……?
晴右卿記では十一月段階で栗真庄に関して「静謐なんだから税金納めてくれ」って書いているから北伊勢で秋以降は争いは無さそうですが。
◯1568 北畠氏、織田信長との戦争へ
永禄十一年(1568)
二月、信長は四万余の軍勢を率いて北伊勢へと侵攻。神戸氏と関一党を従わせることに成功しました。
神戸氏とは三男信孝を養子入りさせることで和睦。関一党は本家の関盛信が六角に義理立てして抵抗しましたが、やがて相婿の神戸友盛が諫めて織田に帰伏したようです。
六角氏は幕下の国衆が攻撃を受けたにも関わらずまた救援をしませんでした(「是六角不亦救故也」『伊勢記』)。六角氏は混乱する北伊勢に対して具体的な行動を起こしている気配がありません。これは戦国大名としては問題のある行動です。
三月には長野氏が織田方へと寝返ります。
『伊勢記』では織田勢が細野城を攻めて細野九郎右衛門(藤敦)が防戦したが、分部左京亮と河北内匠助が長野に背いて信長の幕下に入り信長弟の三十郎信兼(当時は信良)を養子に迎えたとなっています。(細野藤敦の動きは史料によってマチマチな気がする…?)
しかし同時代史料ではこの侵攻以前におそらく三十郎信兼の事とみられる「御方様の御迎え」について滝川と長野家中がやり取りをしていた形跡があるので『伊勢記』のこの細野の防戦がどこまで信憑性があるのかはよくわかりません。少なくとも分部氏らは何年も前から信長と接触して関係を築いています。養子の話も事前にしていたでしょう。
長野具藤は長野城で防戦するも叶わず落城して国司(北畠)を頼って退散。『伊勢記』は「国司が長野の武勇に頼って加勢をしなかったのは落ち度だった」としています。(まぁどっちにせよ裏切ってたでしょうけど…)
長野氏の転属と具藤追放によって長野氏は北畠氏と完全に敵対しました。信長には当然これを助ける義務が生じます。つまり織田VS北畠の戦争が勃発します。信長は長野氏を支援するため滝川一益に北勢諸侍を与力として付け津田一安と共に伊勢に配置して自らは岐阜へと帰国。そして残された滝川、津田は長野氏と共に北畠氏の軍兵と合戦を始めます。
そして翌永禄十二年に織田信長が北畠領国へと大軍で侵攻し、大河内合戦が起こります。
これ以降の話は前に書いたやつを読んでください。
ーーーーーーー
永禄の北伊勢はおおよそこんな感じだったんじゃないでしょうか?
以前調べた時は北畠氏と六角氏は親戚のはずなのに、その下に従属する長野氏や関一党、神戸氏らが互いを滅ぼそうと争ってたりして意味がわからなかったんですが、『伊勢記』と同時代史料を組み合わせると
「そもそも長野氏と関一党、神戸氏らを従属させたことで北伊勢をめぐって関係が悪化していて、直接戦ってはいないが敵対する状態になってた」
「信長も助けを求められたので北伊勢へ介入した(ら抜け出せなくなった…?)」
のではないかなーと思います。
特に永禄六年(たぶん)に六角義弼が尾州衆(織田)の伊勢への出陣を喜んでいる事や、永禄八年に信長が「勢州辺まで形の如く申し付けた」と書いている事に整合性がとれます。
以前の同人誌やブログで書いた「北畠氏は六角との関係から反義昭方になったのでは?」というのは少し違う感じになりそうです。
そもそも信長と北伊勢を巡って揉めてたから六角も北畠も義昭上洛に関して信長に協力できなかったのでは……?
『伊勢記』でも永禄十一年の上洛戦のところで「六角家及伊勢国司家当春信長依攻取北伊勢会遺恨也」となっています。まぁ北伊勢が揉めた理由は別に信長が悪いわけではないですけどね。
六角氏に関しては北伊勢を救わなかった事で家臣団に与えた影響も気になるところです。
他の史料とかも加えたら長野氏関係はもうちょい整理できるのかも。
長野藤定の没年もどうなんでしょうね?永禄十年の感状って本物なんでしょうか?軍記物とかでは基本的に具藤養子入りの前後で死んでますが。隠居してたけど「さすがにヤベーぞ」ってなって一時的に復帰したような気がしますが果たして。
参考文献
小坂宜広『織田信包』(伊藤印刷株式会社 二〇二一年)
小川雄『戦国武将列伝6 東海編』「北畠具教」「木造具政」「長野政藤・尹藤・植藤」(戎光祥出版 二〇二四年)
『三重県史』通史編「中世」
『伊勢記』
『伊勢国司伝記』
他いろいろ…