大納言の倉

戦国時代のことを素人のおじさんがなんとなくで書き記します。

戦国大名伊勢北畠氏の歴史 その2(1562~1569)

戦国大名伊勢北畠氏の歴史 その2

具房の家督継承(1562)から大河内合戦(1569)までになります。

ここからはちょっと詳しく書いていきます。
書状の内容とかはテキトーな意訳なので深く考えんといてください。

 

その1はこちら

dainagonnokura.hatenablog.jp

 

 

 

 

 


1562 具房家督を継ぐ

永禄五年(1562)、北畠具教は家督を嫡男の北畠具房に譲りました。この時十六歳。これ以降行政関係の文書は具房メインになっていきます。ただ具教も引退したわけではなく、具房と父子で二頭政治を行っています。
具房は五年前の永禄元年(1558)四月十九日には伊勢神宮元服をしていて、それより前の天文二十四年(1555)には従五位下侍従、弘治三年(1557)には左近衛少将にも任じられていました。

『勢州軍記』によると具房は「大腹御所」と敵に罵られるほどの肥満(デブ)だったとされます。しかし他の軍記物や系図なんかでは具房が病(所労)だったという記述が度々見られるので、肥満に関しても何かしら病気の影響だったのかもしれません。実際に若くして亡くなっています。(あくまで個人的な推測です)

また具房は生母と共に父具教から蔑ろにされていたとも伝わります(『勢州軍記』)。政治を行う中で具教が具房のことを蔑ろにしているケースは見当たりませんが、史料に見えない部分で家族間の確執があったりしたのかもしれませんね。
(ちなみに生母は天正二年時点で具教とは別居してるっぽいので……まぁ……仲悪いのかも……?)

 

1563 志摩出兵

永禄六年(1563)二月、北畠氏は志摩国へと出兵しました
どういう理由かは不明です。九鬼嘉隆が没落した抗争ではないかとも言われるのですが、九鬼氏に関連する同時代史料はないためはっきりとしません。九鬼氏が一時没落した戦いについては『勢州軍記』『寛政譜』の話を合わせると「九鬼嘉隆が掟に背いたため他の志摩七党が一味同心して九鬼氏を攻め、七党側が多気国司(北畠氏)に援兵を借りた」という感じになります。
二月二十一日に具房が山田御師の福嶋氏に対して「(嶋中申事について)すぐに進発しろ。油断しないように。」と命じています。
五月十三日には具教が志摩国磯部郷へ「花岡、和具、越賀ら敵地の面々が其の郷に出入りしていると聞いた。許容しない。」と伝達。
さらにこの後も戦いは十ヶ月以上に渡って続いていたらしく、閏十二月二十五日には沢房満が番替せず途中で帰ってしまったので具房が

「ちゃんと三十日間は城に在番しろ!」と怒っています。

なお沢房満は同じ時期に宇陀郡国人の秋山氏の知行を横領していて、早く返すよう具房に怒られています。問題児……。
この閏十二月以降の史料がないため、志摩攻めがどういう経過を辿ってどう終結したのかは定かではありません。ただ家督を継いだばかりの具房が軍事行動を指揮し、さらに家臣同士の横領を叱責するなど、きちんと仕事を果たしているのはわかります。

後世では無能、暗愚として扱われる具房ですが、同時代の史料からは特に無能さは感じられない。彼は普通に仕事をして、早くに引退して、そして若くして死んだ。そんな感じ。

 

1563~1564 長野氏と合戦

志摩国へ出兵していた永禄六年(1563)、北畠氏は同時に長野氏とも戦争しています。
永禄元年頃に従属したとされる長野氏でしたが、やっぱり不満があったようです。
九月十六日に伊勢国へやってきた公家の吉田兼右雲林院に着いたけど、国司(北畠氏)と長野が合戦していて窪田と安濃津の路次が通れなかった。」と記しています。(ちょうどこの時期に外宮の式年遷宮がありました。かなり久しぶりだったはず。)

……そしてこの戦争の最中、長野氏重臣分部左京亮(長野藤定の甥)織田信長に誼を通じ、信長から「あなたのことは見放さない」と返事を貰っている((永禄七年)十一月十三日付分部左京亮宛織田信長書状)。
織田信長は永禄十年(1567)に伊勢侵攻を開始し、永禄十一年(1568)に長野氏は織田方へ寝返ることになるのですが、その四年も前から既に長野氏重臣の分部氏と関係を持っていたのは興味深い事です。

永禄七年(1564)六月に勧修寺尹豊が長野氏と雲林院氏の和睦のため伊勢へ下向し、戦いは収まったらしい(『三重県史 通史編中世』)。
長野氏と雲林院氏の和睦ということは長野家中も内部分裂していたようです。
戦争の原因そのものは史料が無いのではっきりとしないものの、『三重県史』では「(具教次男の)具藤家督継承に絡んでの紛争」と推測されています。
そしてこれ以前からなのか、これ以降からなのかわからないのですが、永禄八年九月二十五日付の長野氏奉行人奉書では「本所様為御意被仰付…」となっていて、どうも長野領の統治に本所(北畠具房)の御意が必要な状態になっていたようです。長野家中からしたら「なんで俺らの国のことそっちに決めてもらわなあかんねん!」といった感じ。長野氏は養子を迎えて従属したとはいえ、北畠氏の家臣になったわけではないですからね。

志摩国では紛争が起こり、従属したはずの長野氏は織田信長接触している。

1565 永禄の変

永禄八年(1565)に将軍足利義輝が三好義継に殺害される事件が起こりました。
諸々から逃げることに成功した義輝弟の足利義昭は六角氏領国の近江矢島と落ち延びています。
しかし義昭を保護していた六角氏は翌永禄九年(1566)八月に反義昭方へ寝返ってしまい、六角氏謀叛を察知した足利義昭は近江矢島から若狭へと脱出する羽目になりました(『六角定頼』村井祐樹)。
北畠氏は六角氏の縁戚(具房生母の実家)ということもあり、次期将軍を巡る争いに関して微妙な立場になってしまいました。なんだかめんどくさいことになってきたぞ。

 

1567 織田氏の北伊勢侵攻

永禄十年(1567)四月、滝川一益が北伊勢へと侵攻を開始しました(大福田寺への禁制が残っている)。
織田信長による突然の北伊勢侵攻ですが、おそらく前年に六角氏が反義昭方へ転属したことが原因ではないかと思われます。
当時の北伊勢は六角氏の影響下にあり、桑名や梅戸氏、千種氏、神戸氏、関氏ら北勢の諸侍を従わせていました。上洛を目指す信長にとっては本国尾張の真横に敵対勢力がいる形になりますから放置することはできなかったのでしょう。
八月には織田信長が自ら出馬して北伊勢各地を放火。ちょうど連歌師の里村紹巴が対岸の尾張に滞在しており「西を見れハ長嶋おひおとされ、法か(放火)のひかりおひただし、如白日なれはおきゐて…」と記しています。
織田氏の北伊勢侵攻に関して、北畠氏が何か動きを見せたという史料は特にありません。というか六角氏も動いてない(動ける状態だったか知らんけど)。

 

1567 木造荘の直務問題

永禄十年(1567)七月、京都の公家久我氏から「お前の所にある木造庄から年貢が届かないから直接経営にしたいんだけど?」とキレられた。
久我氏は北畠氏と同じ村上源氏(というか向こうが本流)で、伊勢国一志郡にあった木造荘を所領としていました。昔と比べて額は減少したものの戦国時代になってもなんだかんだで北畠氏は年貢を送り続けていた……のですが、どうも木造荘代官を務めていた森岡弥六(山崎国通の被官)が二年前から横領して送っていなかったらしい。
具教・具房は一族の岩内鎮慶に対処を指示。山崎国通監督責任を問われて具房への取次役を解任され、森岡には「納めなかった分を二年に分けて納めるように」と命じました。その後も森岡弥六が管理していたようなので、引き続き木造荘の管理は北畠氏が務めていいことになったらしい。
北畠氏が年貢を納めて久我氏との関係を保っているのは、久我氏が官位の推挙権を持っていたからではないかと考えられています。北畠一族の官位昇進を久我氏に助けて貰えるのです。(この時は岩内鎮慶の子息国茂が任官した)。

北畠氏は官位昇進できる!

久我氏は年貢を納めてもらえる!(全額送るとは言っていない)

WIN-WINの関係ですね!!!全額横領されるより全然マシ!!!

(……ちなみに北畠氏は前年から射和白粉料の公用も納めていない)

 

1567 謎の動乱

永禄十年(1567)、北畠氏領国でいまいちよくわからない謎の出来事が多発している。

●六月六日
来迎寺に出された禁制
来迎寺は細汲(細頸、松ヶ島)にあった寺なのだけど、がっつり北畠氏領国内にありました。
なぜかここに「軍勢甲乙人乱入・宿取事…」と禁制が残っている。なんでそんなところへこの時期に禁制が?
しかもこの奉行人奉書、教兼(具教奉行人)が袖判を据え、日下に房兼(具房奉行人)が署名と花押を据えるというイレギュラーな形で出されています。こうした形で出された文書は他にないので、いまいちどういう理由でそうなっているのかわかっていません。
(永禄十年六月六日付来迎寺宛房兼・教兼奉行人禁制)

●六月九日
沢房満と不慮之粉
北畠具教が沢源五郎(房満)宛に「就今度不慮之粉、雖本所不審之儀候」と送っている。
不慮の紛に関する具体的なことが書いてないので何かわからないが、沢房満について具房が不審に思うような出来事があったらしい。
(永禄九年六月九日付沢源五郎宛北畠具教書状)

●六月二十五日・七月朔日
長野藤定の感状

藤定!生きとったんかワレ!!!!!

『勢州軍記』だと具藤の養子入り後に死んだとされる長野藤定。どうも生きていたらしく分部四郎二郎に感状を出しています。
六月二十五日に葉野表合戦……と葉野で合戦したらしい。葉野は羽野のこと……?だとするとちょうど北畠氏と長野氏の境目にあたるので、合戦の相手は北畠氏になる?ちょっとわからない。
(永禄十年七月朔日付分部四郎次郎宛長野藤定書状)

勢州軍記だと長野氏の織田方への転属は永禄十一年(1568)だけど、この書状が本物なら永禄十年には戦いが始まっていたことになるのですが……うーん……。北側で織田方と戦った可能性もあるしわからんね。

●十月二日
物言共にて取乱
岩内鎮慶が久我氏に送った書状に出てくる「不慮ニ折節当国物言共にて取乱候…」。
領国で問題が起きていたようですが……例によって具体的なことを書いてないので、何が起きていたのかわからない。
((永禄十年)十月二日付本庄兵部丞宛岩内鎮慶書状)

 

北畠領国に何かが起こっていた。でもなんなのかよくわからん。
長野氏と戦争が始まっているようにも見えるが、永禄十年十一月十三日付の勧修寺家家司豊家書状では栗真荘の公用について「国が錯乱状態だからって近年納めてくれなかったけど、この頃は静謐だから納めてほしい」といった感じのことを書いている。栗真荘は白子から栗真にあった広大な荘園で長野氏が代官職を務めていた。「静謐」と言っているからこの地域が戦争状態という事は無いように思える。

いやでも8月には信長が放火しまくってたのに静謐扱いだから7月だけ争ってたのならわからないかも……。
四月から北伊勢が滝川一益の侵攻を受けているのでその影響で何かが起こったのか、あるいはこの年に沢氏が宇陀郡へ復帰したとされるのでその争いか…。

わからん。おーん。

なんしとったんやお前ら……。

 

1567 宇陀郡の奪回

永禄十年(1567)頃、北畠氏が大和国宇陀郡を奪回。沢氏が沢城へ復帰したとされます。
三好氏の内紛によって松永久秀が勢力を減退させたことがきっかけとみられ、沢城に配されていた高山飛騨守は沢城から没落しました。
フロイス書簡』は「敵の大軍が沢城を囲み、力攻めでは落ちなかったが兵粮、火薬が欠乏したため城を捨てた」としています。敵の大軍というのが誰の軍勢なのかは書かれていないので不明。
……もしかして永禄十年六月の沢房満宛具教御教書に「就今度不慮之粉、雖本所不審之儀候」とあるのはこうした動きに関係にあるものなのかもしれません。詳しいことはわからないですが。

 

1568 信長の第二次伊勢侵攻と長野氏の寝返り

永禄十一年(1568)、この年の冬、長野氏が織田方へと寝返りました。
養子としていた長野具藤(具教次男)を追放して、新たに織田信長の弟である三十郎信良(信兼・信包)を養子・新当主として迎えています。よほど北畠氏とは一緒になりたくなかったらしい。
これに関連するとみられる史料が滝川一益が長野家中十名に宛てた書状で「御方様(信良?)の迎え」についてと「信長の北伊勢出陣が来二十九日である」と伝えています。((永禄十一年二月?)二十五日付滝川一益書状)
『勢州軍記』によるとこの年の二月に信長が伊勢へ侵攻し、河曲郡神戸氏を下して三男である三七信孝を養子に入れています。神戸氏が織田方に降ったことで六角承偵は激怒し神戸氏の人質を塩攻めにしました。この人質は円貞房という僧で神戸楽三(具盛)の末子だったという。神戸楽三は北畠晴具の弟なので、具教からするとこの塩攻めにされた人質は従兄弟ということになります。ちなみに円貞房は狂人となって神戸へ帰ってきたので死んではないらしい。いや帰されても……狂人の面倒見るの相当きついでしょ……。
鈴鹿郡関一党は本家以外は織田方に降伏しましたが、本家の関盛信は六角氏に義理立てして敵対しています(後に降伏)。
『勢州軍記』ではその後に織田勢が長野領へ攻め寄せたものの攻め破ることができず、そうしていたところに長野重臣の分部左京亮らが織田方へ寝返り、長野具藤を追放して信良を養子に迎え入れたとしています。
……ただ滝川一益の書状を見ると「信長出陣前に重臣らが約束を取り付けている」ように見えるのでどこまで事実なのかはよくわからないです。外部から見るとそう見えたということかもしれませんが。

個人的には第二次伊勢侵攻は長野氏に弟信良を届けるところまで含めてのもののように思えるのですが……うーん。

同時代史料も少ないのでわからんことが多い!

 

1568 織田氏・長野氏との開戦

永禄十一年(1568)、第二次伊勢侵攻を終えた信長は弟で長野氏を継いだ信良を伊勢上野城へ、津田一安(掃部助)を安濃津城に配置して帰国。南方への押さえとして配置された津田一安は長野信良と共に北畠氏の今徳山城、小森上野城を攻撃。北畠氏もこれらの城に援軍を送り、数度に渡り攻防が繰り広げられることになりました(『勢州軍記』)。

織田氏と北畠氏の戦争は、長野氏の逆心(転属)によって発生しています。

(「然工藤家(長野氏)依逆心。今徳奥山方小森上野藤方家與織田掃部助(津田一安)挑合戦。故国司勢北方致戦数度也」『勢州軍記』)

……あと六角氏が反義昭方になった影響で北畠も立ち位置がおそらくそっち寄りになっていること、それと松永久秀大和国宇陀郡で争ったことあたりもありますね。探せばまだあるのかも?
織田と戦争になる理由はいくつか存在するので、別に具教や具房の能力や判断による問題ではありません。長野氏に裏切られた北畠氏は長野氏を攻めなければならないし、織田氏は自分を頼ってきた長野氏を助けないといけない。義昭の味方にもならないなら信長としては、やっぱり北畠には痛い目を見てもらうしかない。どうしようもないね!
(そもそも境目の国衆が転属して戦争になるのはよくあることでは)

永禄十一年(1568)十一月には沢氏が人夫改めを実施しています。本格的な戦争に備えての動員準備でしょうか?(永禄十一年十一月十一日杉左衛門大夫請文など多数)

『勢州軍記』では信長侵攻に備えて細頸(細汲)に御殿を築いて日置大膳亮が入り、具教や具房は多気から大河内城へと入ったとしています。
さすがに多気では山奥すぎるので、平野部に近い大河内城が拠点となったようです。大河内城は有力一族大河内氏の本拠だったのですが、大河内氏は大淀城(伊勢湾の近く)へと移ることになったらしい。
雲出川以南の各城にも守備する武将たちが配置されています。援軍にやってくるであろう織田信長の侵攻に備えて、北畠氏は着々と防衛体制を整えていきました。
…しかし身構えている時には死神は来ないもので、信長の侵攻はしばらく行われませんでした。
それもそのはず、この永禄十一年夏は信長が足利義昭を奉じて上洛戦を実施した年であり、伊勢方面に構っているような暇などありませんでした。

ドラマとかでもだいたい伊勢攻めはすっ飛ばされるもんね!

信長と対立する理由は結構あった北畠氏。揉め事が多い……



1569 隠謀あらわれ

永禄十二年(一五六九)、この年ついに織田信長の北畠領侵攻が行われました。
『年代和歌抄』では「正月九日に隠謀があらわれて郷々が悉く焼き払われた」としています。この隠謀によって日置大膳亮が在城していた細頸城(細汲)を焼いて大河内城まで撤退。そしてこの隠謀に乗じて長野信良(信包)が北畠領の最前線、小森上野城への攻撃を再開。これを北畠氏一族の藤方具就(刑部少輔)が迎え撃っています。

具房は小森上野城に増援を向かわせたようですが、正月二十三日付の奉行人奉書では佐藤氏(北畠家臣)に対して「小森上野城が開陣していた場合は家城城へ入れ」と命じています。落ちていても不思議ではない状況だったのでしょう。
また二十八日までには曽原城でも籠城戦が開始されています。


三月二十日には長野勢は小森上野城の周囲に付城を築いて包囲を強化。同月付安堵状では長野信良分部光嘉へ「忠節無比御高名」と武功を賞しています。
この時、北畠国永は息子とされる藤方具就が守る小森上野城へと見廻りにやって来ていましたが、付城での包囲が進んだために二十三日夜には密かに城を退去しました(『年代和歌抄』)。小森上野城の置かれた状況はなかなかに苦しいものだったので、おそらく父子とも「これが最後かも…」と思って会っていたんじゃないでしょうか。

五月一日、具房は再び佐藤氏に対して奉書を出しました。今度は天花寺城への入城を命じたようです。小森上野城に行けと言われたり家城城に行けと言われたり天花寺城へ行けと言われたり、戦場の武士たちも大変です。

 

1569 長野勢の総攻撃と木造具政の離反

五月十二日、長野信良は数千騎を率いて小森上野城への総攻撃を実施しました。堀を隔てて戦うも城を破る事はできず長野勢が「百人討れて引き退く」大敗を喫し、北畠方が勝利しています。(『年代和歌抄』)

しかしこの五月に有力一族の木造具政が北畠氏を離反して織田方へと寝返りました。
木造具政は北畠晴具の次男で具教の八歳下の弟にあたり木造氏に養子入りして当主となっていましたが、北畠氏の命運を賭けた戦いが繰り広げられる中で容赦なく実兄を裏切りました。
『木造記』では多気の祭りで一族内の序列をめぐって具教と揉めたことを原因としています。木造御所は一族の頭であるから国司の馬に続くのが通例であったのに、具教は一族三大将(大河内、坂内、田丸)を先にして木造をその後としてしまいました。具政は兄具教を非難しましたが、序列が戻されることはなく具政は具教に対して不満を募らせました。そこへ木造一族の源城院主玄(滝川雄利)が織田方へとまず内通し、重臣の柘植保重と相談したうえで具教へ不満を抱く木造具政に寝返りを勧めたました。
『木造記』は木造氏を主役とした軍記物なので事実なのかはなんとも言えないですが、伝わっている離反の理由はとりあえずそうなっています。

弟の裏切りに北畠具教は激怒。人質としていた柘植保重の娘を木造城対岸の雲出川で磔とし、そのまま木造城を攻撃しました。(木造城代は弘治二年段階では沢氏であったはずですが、この戦いでは木造具政が守将として入っている。いつ頃木造氏が復帰したのかはわからない)
木造城攻めの軍勢を率いたのは本田左京亮大多和兵部少輔沢房満秋山右近将監(『木造記』)。北畠勢の猛攻に対して木造勢は頑強に抵抗。城を落とすことができないまま時が過ぎていきます。
『木造記』『足利季世記』ではこの時に津田一安滝川一益関一党長野氏が木造城に後詰したとしています。もしかすると五月十二日の小森上野城に対する大規模な攻撃はこの木造氏離叛に連動したものかもしれませんね。
『木造記』では「小森上野城の藤方刑部少輔に北側から木造城を攻めさせようぜ!」と木造城を攻めてる北畠勢は考えたらしいが藤方は出陣しなかったという。そりゃそうだろ。


1569 各所での戦闘

六月(七月?)には二見郷が蜂起野呂越前守が討伐のため出陣し、塩合川・二見の戦いで二見勢を破っています。
しかし山田三方が突如として寝返り、野呂勢の背後を急襲しました。挟み撃ちにされた野呂勢は大敗。野呂越前守は討死し、野呂一族も多くの死者を出したと伝わります。
『年代和歌抄』は「二見破却のために、本所(具房)玉丸(田丸)にいたり馬を出され、七月の末一戦にやふれ…」と北畠具房が田丸、二見方面へ出陣したことを記しています。
この二見の一揆には九鬼氏など海上勢力の関与もあったとも考えられています。九鬼嘉隆は志摩を追われていましたが、信長の支援により復帰。九鬼勢は海上から北畠氏への攻撃を繰り返していたとされ、原城天花寺勢、船江城の本田勢が上陸してきた九鬼勢を夜襲で撃退したとも伝わり、九月には大淀城にも攻め寄せたが城番であった鈴木、安西、中西らが防いだと伝わります。(『勢州軍記』『三国地志』)
ただ「麻生浦旧記録」だと永禄十一年に「九鬼嘉隆が北畠氏の支援を得て志摩の侍を降伏させようとしたが浦氏が従わなかったので攻めた」となっているので、織田に従っていたという勢州軍記の話と矛盾します。どっちなんでしょうね。
また七月二十八日に伊賀国の仁木氏が滝川一益を通じて織田方に接近。信長も忠節を尽くせば粗略にしないと伝えています。

木造氏、志摩国、二見、山田……切り崩されつつある領国を北畠氏は必死に防衛し続けました。正月に隠謀で自焼した細頸城や離反した木造氏の城を除けば、城はまだ一つも落ちていません。
しかしこの各所での寝返り、特に木造氏の離叛は織田氏にとっては大きな好機でした。この機を逃さなかった織田信長は、ついに自ら出馬し南勢攻略へと移ります。


1569 信長出陣

永禄十二年(1569)八月二十日、いよいよ織田信長が岐阜を出陣しました。

本国である濃尾両国に加えて南近江や北伊勢からも動員された信長本隊の大軍勢は兵力七万とも十万とも言われます。
さすがに誇張があると思われる数字のため、大西源一氏は「約五万位」ではないかと推測しています(『北畠氏の研究』)。いずれにせよ北畠軍の数倍の兵力を擁する大軍であったことは間違いなく、戦力差は圧倒的でした。
織田方には相当の自信があったとみられ、『三重県史』では「楽観的気分がただよっていた」のではないかと推測しています。朝山日乗が毛利元就へ宛てた書状では「十日以内に平定できる」と豪語しています。(死ぬほど舐められているな北畠…)

(「信長者三河遠江尾張・美濃・江州・北伊勢之衆十万計にて国司へ被取懸候。十日之内ニ一国平均たる由候間。」『福井県史資料編2』)

この信長侵攻に対する北畠氏の防衛体制はこんな感じだったとされています(『勢州軍記』)

小森上野城…藤方具就(刑部少輔)
阿坂城………大宮入道含仁斎
今徳山城……奥山常陸
船江城………本田右衛門尉(本田小次郎親康の叔父。小次郎は左京亮?)
八田城………大多和兵部少輔
原城………天花寺小次郎
岩内城………岩内御所(岩内鎮慶?国茂?)
大河内城……北畠具教、具房父子。

具教たちが大河内城へ移った時期はわかっていませんが、永禄十二年の夏頃と推測されています。一時的に籠るだけであったのか、以降も本家の城とするつもりであったのかは不明。でも数年後には信雄が入っているので本家で使うつもりだったのかも。
全体の兵力として勢州軍記は「国司勢一万六千」としていますが、これはこの戦いの兵力ではなく全盛期のものでしょう。しかもたぶん盛ってる。
大西源一氏は総勢を一万、大河内籠城兵力は七~八千人と推定しています。(『北畠氏の研究』)。

なお大河内合戦については史料が少なく『信長公記』や『勢州軍記』などの記述に頼る部分が大きいです。そのため経過等がどの程度までが事実かは不明です。

 

岐阜出陣(8月20日)→桑名(8月21日)→白子(8月22日)→木造(8月23日)

1569 織田信長の南勢侵入

桑名で諸国の軍勢と合流した織田勢は、白子を経て南勢へと侵入しました。
この時、小森上野城藤方具就、今徳山城の奥山常陸の二人は迫る織田の大軍に対して

「義のために討死を覚悟で一戦を遂げよう」

と考えていたようです(『勢州軍記』)。


しかし信長は両城を攻めることなく通過して木造城へと入りました。
一応、小森上野城には滝川一益と関一党、今徳山城には長野信良、津田一安が押さえとして置かれたようです(滝川、長野勢はその後に大河内城へ来ている)。
八月二十三日に木造城へ入城した信長は雨の為しばらく動けず、三日後の八月二十六日に木造を出陣します。本来であれば平野部の参宮街道を通って船江城から大河内城へと進むのですが、木造城での軍議で乙部兵庫頭が「船江城には精鋭が配置されており容易には落とせない」と進言したため、信長は山際を通って大河内城へと進軍するルートをとっています。
織田勢はまず八田城攻めへと向かいますが、濃霧に包まれていたため攻撃を断念。結局、八田城は放置して南下。翌二十七日には阿坂城へと攻め寄せました
阿坂城は織田勢から和睦(降伏)を申し入れられましたが、城将である大宮含仁斎がこれを跳ね除けています。信長はその南にある岩内城の岩内氏へも降伏を勧告しましたが、岩内御所(鎮慶か国茂)からも「それは国司次第だ」と突っ返されています。
小森上野城の藤方具就、今徳山城の奥山常陸介、そしてこの阿坂城の大宮含仁斎、岩内城の岩内氏。数万の大軍相手にも北畠家臣らは怯まずに徹底抗戦の構えを見せました。

織田勢は阿坂城攻めを決定し阿坂城を攻撃。先陣は木下秀吉(豊臣秀吉)であったとされ、大力で弓の名手であった大宮大之丞が秀吉に矢を命中させるなど城方は奮戦しています。
しかし内部で寝返る者が現れて火薬に水を入れたために継戦不能となり、大宮含仁斎は降伏して城を明け渡す羽目になってしまいました。
またこの戦いの前夜に船江城の本田衆が、信長本隊に合流しようとした織田勢の先陣部隊に夜襲を仕掛け勝利を得て武名を高めたと云われます。
しかし翌日にも夜襲をかけたところ織田勢に迎え撃たれて敗退してしまいました。連日の夜襲はさすがに調子に乗りすぎでしょ。(天花寺衆も夜襲を仕掛けたとされる)

阿坂城方面。山頂の本丸が陥落したのはおそらく北畠側の支城から確認できたはず。


1569 大河内城包囲

永禄十二年(1569)八月二十八日、信長率いる織田の大軍が北畠具教、具房父子の籠る大河内城を包囲しました。
織田勢は城の周囲に鹿垣(陣地)を築き、東西南北から城方に圧迫を加えています。『信長公記』によるも包囲した織田方武将は
東…柴田勝家森可成佐々成政、不破光治
西…佐久間信盛、木下秀吉、氏家卜全安藤守就
南…長野信良、滝川一益稲葉一鉄池田恒興丹羽長秀蒲生賢秀
北…斎藤利治坂井政尚、蜂屋頼隆、磯野員昌
錚々たる面々。まるでオールスターゲーム
磯野員昌は浅井氏の援軍でしょうか。他にも南近江から蒲生・永原・後藤・青地・山岡らが参陣しているようです。

対する北畠氏の籠城衆は…
一族…長野具藤(二郎・長野御所)、大河内具良(大河内御所)、坂内具信(坂内御所)、田丸具忠(田丸御所)、森本飛騨守、方穂民部少輔など。
重臣…鳥屋尾満栄、水谷刑部少輔、安保若狭守・大蔵少輔、朴木隼人正、家城主水佑、日置大膳亮、野呂左近将監、長野左京亮、山崎国通、星合左衛門尉、真柄宮内丞、今川左馬允など。
こちらも主だった一族・重臣・侍大将が揃っています。
ただ木造城を攻めていた本田左京亮、沢房満、秋山右近将監らが大河内城にはいません。大多和兵部少輔と共に八田城に籠ったでしょうか……。沢、秋山がいるあたり主力部隊の一つように見えるのですが、彼らがどこにいたのかはよくわかりません。まぁ支城のどこかにはいたでしょう。

大河内城跡。40mくらいの山。

想像で描いたイラストなので実際とはおそらく違うでしょうけど、なんとなくのイメージに。

 

信長公記』の配置はこんな感じ。『勢州軍記』となんか違う気がするが……。

 

1569 大河内合戦

緒戦は包囲の初日である二十八日夜には行われました。池田恒興勢らが広坂口・市場口へと攻め寄せ日置大膳亮ら防戦。槍の名手とされる家城主水佑が抜きんでた手柄を立て、敵を追い返しています(『勢州軍記』)。

翌二十九日朝には織田勢の総攻撃が実施されましたが、城は落ちませんでした。
この戦いは『勢州軍記』に「敵味方の弓鉄砲が疾風雷雨」のようだったと記される激しい攻防で、特に織田方が大きな被害を出したとされます。
『多門院日記』はこの合戦での織田勢について「人数数多損」と記しています。また後々には九州の大友氏のもとへも「上総(信長)人数千四五百ほと討死候」と伝わっており、織田方がかなり苦戦していると噂になっていたようです。
九月六日には『多聞院日記』が「松永久秀が伊勢へ見舞いに行こうとしたが、伊賀惣国が一揆を起こすかもしれないと噂が立ち見舞いを取り止めた」と記しています。伊賀には北畠氏に従う勢力も存在していて、また伊賀、甲賀へは没落した六角氏もいまだに勢力を持っていました。彼らが信長の伊勢侵攻に乗じて動いていたのかもしれませんね。

九月八日には稲葉一鉄池田恒興丹羽長秀ら織田勢が大河内城の西搦手口から夜襲を仕掛けました。
しかし雨が降り出したことで鉄砲が使えず馬廻朝日孫八郎波多野弥三郎など侍二十余人が討死する被害を蒙る羽目になっています(『信長公記』)。
『勢州軍記』では何故か九月下旬となっているのですが、おそらく八日が正しいでしょう。織田勢が南側の搦手から二の丸へと攻勢をかけ、城への侵入を許すものの日置大膳亮家城主水佑長野左京亮安保大蔵少輔らが防戦して勝利したとしています(『勢州軍記』)。
搦手が西と南で違ってますがこの戦いのことでしょう。

九月上旬には包囲の外から北畠方の船江衆が夜襲をかけ、織田方の氏家勢が被害を出しています(『勢州軍記』)。
九月九日には滝川一益の軍勢が北畠氏本拠の多気へと侵攻国司御殿や城下を焼き払われてしまいました(『信長公記』)。
その後、今度は滝川一益が魔虫谷から大河内城へと攻め上がりましたが、城から弓鉄砲が隙間なく撃ち込まれ滝川勢は悉く打ち殺されてしまい人馬が谷を埋めたと云う(『勢州軍記』)。
『勢州軍記』はこれを十月上旬としていますが、どう考えてもその前なので日付は不明です。

なおこの戦いの時に具房が「大腹御所の餅喰らいwww」と織田兵にディスられています(『勢州軍記』)。織田兵は信長本陣桂瀬山の松の木から2キロ先の大河内城までその絶叫を轟かせたらしく、それを聞いた城方は「あいつ射殺そうぜ!」となりました。そして弓の名手であった秋山氏(北畠重臣)家臣の諸木野弥三郎が大弓で見事にその織田兵を射抜き、見物していた敵味方とも大いに感動したという。

桂瀬山は遠すぎるからさすがに作り話っぽい。でも、もしかしたら城の近くでそういうような出来事があったのかもしれない。その辺を想像するのも歴史の楽しみよね。

 

搦め手から二の丸へ向かう道。八日の戦いはこの辺が主戦場?

まむし谷(魔虫谷)。本丸と西の丸の間にある。滝川一益勢がここを攻めあがったが敗退した。


1569 和睦へ

城の包囲から一月が経過しましたが、織田信長は大河内城を落とせずにいました。
調略を仕掛けるも、応じた野呂左近将監は露見して討ち取られてしまい失敗に終わっています。
織田方の当初の楽観的な想定とは裏腹に、短期での決着に暗雲が立ち込めていました。
北畠氏は正月の開戦段階から鳥屋尾満栄が長期戦を見越して兵粮を集めており(『勢州軍記』)、大河内城も他の支城も頑強に持ち堪えています
『木造記』は「敵城方は討死少なく、寄手は屈強の諸士大半討たれければ、大軍なりといへとも信長公も攻あぐみ給ひける」と記しています(木造記は勢州軍記が参考にした書の一つとされ、勢州軍記と違って木造氏側の視点で書かれている。そのため大河内城を敵城方と呼んでいる)。
一方の織田方は敵地へ大軍で侵攻したものの城を落とせる気配はなく、長期戦の気配が漂っていました。大軍を維持するための兵粮の確保も苦しかったでしょう。しかも後方の支城は阿坂城以外ほぼ放置したため軒並み健在です。簡単に撤退できるとは思えません。
城攻め開始から約一ヶ月、ついに両者は和睦へと至りました。交渉開始から成立までどういった経緯で行われたか詳しくはわかりません。
『具教家譜』では十月中旬に和睦へ向けた動きが始まり十月二十七日に休戦したとしているのですが、『多聞院日記』は十月三日に「勢州国司之城」が落ちたとしています。
信長公記』も十月四日に具教父子が大河内城を出て笠木へと移っているので、やはり十月三日までには和睦の話はまとまっています。『具教家譜』の月日は間違いでしょう。
『足利季世記』では信長から「和睦して公方様(義昭)へ出仕した方が北畠家への覚えも目出度くなるでしょう」と呼びかけ、具教が「最近の信長の威勢は凄まじく、一旦勝って敵を追い出したとしても、とても敵わず当家は滅亡するだろう。またこうしていつまで籠城していられるかもわからない。和睦した方がいい(意訳)」と一同に伝えて籠城衆は和睦に決したと云います。
なお、この和睦、どちらから申し出たのかが史料によって異ります。
信長公記』は「北畠側が兵粮不足となり和睦を願った」としていますが、『勢州軍記』では兵粮は十分あり「織田側が和睦を申し入れてきた」と内容が矛盾しているのです。
信長公記』と『勢州軍記』では信憑性の軍配は『信長公記』に上がると思いますが、当時の史料からは「信長苦戦」の様子が伺われ、『細川両家記』でも「国司方勝利」によって和睦となったとしています。現在の研究では信長側が和睦を申し入れたのでは?とされることが多いです。
一応、合戦終了についての史料をいくつか載せておきます。

『多聞院日記』
「去三日ニ勢州国司ノ城落了之」

『神宮年代記抄河崎』
伊勢国司城大河内へ信長数万騎ニテセムル、終不落、后ニ曖ニテ引トル」

大友宗麟書状(十一月五日付臼杵越中守宛)
国司手前能候て、上総人数千四五百ほと討死候、於其上通路取切候之条、織田頻懇望之由候…」

『細川両家記』
国司方勝利を得て曖に成、同十月十二日信長は開陳の由申候。人数過分死由候」

北畠側が勝利しているように見えなくもない。特に大友宗麟の書状を見ると、織田側が懇望して和睦したように見えます。あくまで九州にはそう伝わっていたということですが。

大河内合戦のまとめ図



 

1569 和睦の条件

この和睦での条件は以下のようなものでした。
・信長の次男茶筅(信雄)が北畠氏に養子入りする。
・具教、具房は大河内城から退去する。
・田丸城など周辺の諸城を破却する。
・関所の撤廃(和睦の条件なのか?)

 

・信長次男の養子入り
信長次男の茶筅(信雄)は永禄元年(1558)生まれの十二歳で、母は嫡男信忠と同じく生駒氏の娘であるとされます。
北畠氏はこの茶筅を北畠具教の娘(千代御前、雪姫)と婚約の上、国司家の養子として迎えることとなりました。千代御前は兄具房の養女となり、茶筅は具房の養子となる形です。
具房はまだ二十三歳。実子がいなかったとはいえ今後出来る可能性は十分にあったはずですが、北畠氏はここで縁もゆかりもない織田氏から養子を迎える決断をしています。
『足利季世記』では具房について「病気にて若君もなければ信長次男を養子に参らすべし」と病気で子供ができなかったとしています。かなりの肥満であったことや、実際に三十四歳と若くして亡くなっていることを考えると、なにかしらの病気を患っていてもおかしくはないのですが、後世に書かれたものなので病気説が事実かは不明です。
また『勢州軍記』には「是有取人質」とあり、茶筅は「人質」でもある北畠家中は見ていたようです。『寛永譜(星合氏)』でも「茶筅御曹司を質となしこれをつかはさるべし(中略)信長疎意あるべからさるのよし起請文をもって盟べき…」となっていて扱いはやはり人質です。大友宗麟書状にあるように「織田側が頻りに懇望して和睦した」のなら織田側から出した人質というのも普通にあり得そうです。
とはいえ『信長公記』に茶筅家督を譲り申さる御堅約にて」とあるように、茶筅家督を継承していくことを少なくとも信長の方は期待していたようです。実際に後々当主となっているのですが、これが最初からの約束だったのか、それとも結果的にそうなっただけなのかは不明です。
しかしこの和睦の直後、十月十一日に信長は上洛したものの、十七日には突然帰国してしまっています。「上意と競り合い」帰国したと『多聞院日記』は記しています。「上意」は将軍足利義昭とみられ、北畠攻めの直後であることからこの戦いや和睦に関して義昭側になにかしら不満があり、信長と一時的に仲違いをしてしまったのではないかとも考えられています。
久野雅司氏は信雄の養子入りが義昭(幕府)にとって「家格秩序を乱すことであるため容認し難く、これによって齟齬が生じた可能性がある」と指摘しています。(『足利義昭織田信長』久野雅司)。
確かに義昭が再建しようとする室町幕府の秩序を無視しているように見えます。義昭と信長が喧嘩した原因が北畠氏への養子入りについてならば、幕府にとっても大事な話を信長が勝手に進めた(?)ことに義昭は全然納得してなかったのかも?

 

・大河内城からの退去
国司家父子の退去はスムーズに行われ、具教らは大河内城を出て坂内氏の笠木館へと移っています。笠木館へ移ったのは多気が焼き払われた影響でしょうか?

 

・諸城の破却。
城の破却については田丸城、船江城などが対象となったようです。和睦により城や砦が破却されるのは当時一般的だったので特におかしな条件ではありません。
でもこの破却を原因とする反乱が曽原城で起こっているので、必ずしも順調ではなく家臣たちからは反発があったらしい。

 

・関所撤廃
信長公記』には和睦後、信長が伊勢の関所撤廃を命じたことが記されています。
これが和睦の条件であったとされることもあるが、条件として挙げていない研究者の方もいた。よくわからん。私は和睦の条件ではなかったと思っていますが、一応書いておきます。
そもそも関所が実際に開かれたのかというと……どうも本当に開かれたらしい。
『多聞院日記』に「元日ヨリ伊勢ノ関悉以上了。去年信長錯乱ノ立願。且廿一ヶ年可上云々」とある。戦いの翌年、永禄十三年(1570)の年明けから実現されています。
おそらく信長が大河内合戦の直後に伊勢神宮へ参詣した際に、なにかしらの立願を行いそのために関所を開けたのでしょう。関所は北畠氏が管理しているのでOKはもらってたはず。関所が開けられれば神宮への参詣も増え、神宮にとっては都合がよい。北畠氏も病気平癒などで神宮への立願の際に関所を開けることがありました。
しかし廿一ヶ年(二十年)も開けていたかというと、そんなわけはありません。天正三年(1575)に薩摩の島津家久伊勢神宮へ参詣しましたが、その時には伊勢国内に関所があったと日記に書き残しています。小倭郷には五つ、駒口や長野、田尻などにも関所があり、櫛田川や宮川の橋賃も徴収されていたようです。
つまり和睦から六年後には関所は復活している。
どういう理由で復活したのかは不明。そもそも信長が勝手に「二十年!」って言ってただけかもしれませんが……。
北畠氏は関所の銭を知行として家臣に与えているので、そのあたりもずっと開けたままというのは厳しかったのかもしれません。

 

1569 戦後

大河内合戦は永禄十二年(1569)十月三日までに和睦が成立。翌四日には北畠具教、具房父子が大河内城から笠木館へと退去しました。具教、具房父子はしばらくして養子に迎えた信長次男の茶筅と船江城で対面元服までは船江の薬師寺に置かれました。…なぜ多気ではなく船江の寺に置いたままなのかがよくわからんですが。他家でも養子の扱いってこういうものなんでしょうか?

茶筅には織田一族の津田一安が後見として付属。津田一安は戦後処理では滝川一益と共に大河内城接収を担当。以降は茶筅の補弼として活動しています。
『勢州軍記』には名前がありませんが、沢井吉長茶筅の傅役(教育係・世話役)として同行。信憑性はなんとも言えないですが、沢井は父と合わせて四千四百貫を知行し、さらに北畠具教より伊勢に一千貫を与えられたとされています(『木曽川町史』)。
また『武功夜話』では小坂宗吉(孫九郎・雄吉)、森正成(甚之丞)も傅役として同行したとしています。史料自体の信憑性は怪しいものの、森清十郎(森甚之丞子息)は他の軍記物で信雄家臣として活動しており、小坂孫九郎は小川新九郎覚書でも存在が確認できるので概ね事実なのかもしれません。
また木造氏から木造一族の源城院主玄(滝川雄利)重臣柘植保重が付き従いました。両者は木造氏の織田方への寝返りを主導した者で、木造家中から引き立てられ茶筅重臣として仕えることになっています。
ただ『勢州軍記』では源浄院主玄は滝川一益のところにしばらくいたとされており、そこで還俗し滝川姓を貰って滝川友足と名乗っています(後に一盛、勝雅、雄親、雅利、雄利とも名乗っている。以後は雄利で統一します)。両者はすぐに茶筅の元へやってきたわけではないのかもしれませんね。『寛永譜(星合氏)』でも滝川雄利と柘植保重は信雄が家督を継いだ時に「赦免されて家僕となった」と書かれています。天正三年頃までは滝川一益に仕えていたのかもしれませんね。
他にも生駒半左衛門尉、林豊前守、足助十兵衛尉、小崎新四郎、安居将監、林与五郎、天野雄光(佐左衛門尉)、池尻平左衛門尉、津川玄番允(源三郎、義冬、雄光)、土方雄久(勘兵衛尉、雄良)ら織田家臣が尾張から付属。彼らは後に信雄重臣、側近層となっていく事になります。
具教らが笠木へ移った翌日の十月五日には信長は山田へと移り、六日には内宮、外宮へ参詣しました。この時に関所を開けるように指示したようです。八日に伊勢における家臣配置を決定して十一日には伊勢を離れて上洛。そして義昭と揉めています。
十月十日には最前線の小森上野城から長野勢が退散。正月から十ヶ月に渡って小森上野城で籠城戦を続けていた藤方具就は最後まで城を守り抜きました北畠国永は『年代和歌抄』の中で「具就武運をひらき白拭に名をしらるる事、愚老の満足何事のこれにしかむや」と息子の活躍を喜んでいる。
……というかこの戦い、まともに落城したのは阿坂城くらいですね。大河内城は和睦で退去、木造城も寝返りだし……。


十一月十五日には具房が沢房満へ西黒部などの権利を安堵する奉行人奉書を出しています。戦後処理の一環でしょうか。

 

1569~1571 曽原城籠城

永禄十二年(1569)十二月、和睦条件であった諸城破却が実施されました。しかし曽原城天花寺小次郎がこれに従わずに籠城。家城主水佑ら北畠重臣もこれに加勢して国内が騒動となってしまいました(『勢州軍記』)。
翌元亀元年(1570)に北畠勢(織田勢?)が付城を築いて城を攻めたものの敗退。元亀二年(1571)の夏にはついに北畠具房が自ら出馬。曽原城を攻撃しています。
この際に家城主水佑は主君に対して弓を引くことを恐れて北畠方に寝返り城を出ますが、城方がこれを追撃して激しい合戦となっています。原城はその後陥落天花寺小次郎は滅亡しました。
天花寺たちが破却に従わず戦う道を選んだのは自身の持城が破却の対象になったことが不満だったとも云われますが、実際はっきりとはしません。この騒動によって織田方が計画していた城の破却は結局一つも実施できなかったとされます(『伊勢国司記略』)。
『勢州軍記』は天花寺小次郎を「勇心を励まし、独り主君に背き、後の災い知らずして自ら滅亡す、誠に思慮あるべき者なり」とあまり良い評価はしていないように思えます。

 

 

3へ続く

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主な参考文献
三重県史』 通史編「中世」
『伊勢北畠氏と中世都市・多気
九鬼嘉隆―戦国最強の水軍大将―』

大西源一『北畠氏の研究(復刊)』
久野雅司『足利義昭織田信長
谷口克広『信長軍の司令官』
和田裕弘織田信長の家臣団』
岡野友彦『戦国貴族の生き残り戦略』
勝山清次・飯田良一・上野秀治・西川洋・稲本紀昭・駒田利治編『新版県史 三重県の歴史』(山川出版社 二〇一五年)
村井祐樹『六角定頼』
赤坂恒明「天正四年の『堂上次第』について―特に滅亡前夜の北畠一門に関する記載を中心に―」
稲本紀昭「北畠国永『年代和歌抄』を読む」(史窓65巻 二〇〇八年)
吉井功兒「伊勢北畠氏家督の消長」

 

……など。
詳しくは参考文献リストや史料リストをどうぞ

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