大納言の倉

戦国時代のことを素人のおじさんがなんとなくで書き記します。

戦国大名伊勢北畠氏の歴史 その1 (1467~1560)

戦国大名伊勢北畠氏の歴史 その1
応仁の乱(1467)~松永久秀の侵攻(1560)までになります。

 

戦国大名伊勢北畠氏は戦国時代に伊勢国南部(南勢)を支配した地域権力です。
信長の野望でも登場しますし、南北朝時代北畠親房北畠顕家なんかが活躍したので「あー、あの北畠の親戚ねー」くらいに認知している人もいるかもしれない。
私はあまり南北朝時代は詳しくないので逆に「調べとる大名の先祖たちかー」になるんですけどね。
そんな北畠氏、南北朝時代の後は室町幕府に従って活動し、そのまま南勢を支配する勢力として戦国時代に突入しました。


「……で、こいつら戦国時代には何をしとったんや?」


ってなりません?
南北朝時代の後に北畠氏が歴史の本流に出現するのが織田信長の侵攻の時くらいなので(大河ドラマではそれすらスルーされることもある)、たぶんほとんどの人は北畠氏が戦国時代に何してたかを知らんのでは?少なくとも私は調べるまで知らなかった。(まぁ知らなくても戦国ファンとして全然生きていけるんだけど…)。

そんな訳なので「軽くでいいから伊勢北畠について知れるとこがあったらいいよねー」と思い、応仁の乱から戦国末期までの伊勢北畠氏が何をしてたとかを簡単に書いていこうと思います。


素人が頑張って書いてるもんなので、あまり信じ過ぎずに夏休みの自由研究の発表くらいに思ってお読みください。個人的な感想も入ってます。

できれば前回書いた基礎情報も先に読んでおいて頂けますとわかりやすくなります。
https://dainagonnokura.hatenablog.jp/entry/2023/08/19/233530

 

 



 

 

1467 応仁の乱

応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発しました。
この時の伊勢北畠氏の当主は北畠教具。教具は東軍に味方すべく出陣しようとしますが、将軍足利義政によって止められます。(「伊勢国司上洛ハ先以自公方被止之…」)
これは教具の息子で次期後継者の北畠政郷が、西軍主力の畠山義就と仲が良かったことを警戒してのものでした。上洛した後に親子でどっちに付くで揉められても困りますからね。

 

1467 足利義視がやって来る

応仁元年(1467)八月には将軍の弟である足利義視が北畠氏のもとへやってきました。在京していた北畠一族の木造教親が手引きをしたようで翌年九月まで一年程滞在しています。すぐに帰らなかったのには北勢への出兵に義視の存在を利用したい北畠氏側の思惑もあったようです。義視の方もいろいろあったかもしれませんが。
応仁二年(1468)七月に北畠軍が北勢の河曲郡へ出兵して世保氏と戦っています。半済実施権をめぐる対立があったようで、足利義政が弟義視のために与えた半済分に関連するものではないかとみられています。

 

1470 伊勢守護職への補任

文明二年(1470)、北畠氏は伊勢守護職に補任されました
西軍内で南朝の後胤を擁立しようという計画があったため、南北朝時代南朝方であった北畠氏を繋ぎ止めるために行ったのではないかと考えられています。
守護となった北畠氏は北勢へと進出を本格化させていきます。

 

1471 北畠教具が亡くなる

文明三年(1471)三月、当主の北畠教具が急死します。四十九歳でした。
家督は嫡男の北畠政郷が継ぎ、北勢への出兵は継続されています。
政郷は永正五年に六十歳で亡くなったとされるので、逆算するとこの時は二十三歳。伊勢だけでなく中央情勢もどんどん混乱していく難しい場面で突然バトンを渡されることになりました。

 

1473 斎藤妙椿の侵攻

文明五年(1473)、伊勢長野氏と結んだ美濃の斎藤妙椿が北勢へと侵攻。北畠勢がこれを迎え撃ちました。
十二月三日の合戦は双方が300人余の犠牲を出す激戦となり、合戦は北畠方が勝利して斎藤勢は美濃へと退却しています。
北畠氏はこの後、河曲郡神戸氏に任せたとされています。神戸氏は河曲郡の二十四郷を支配する有力領主で、政郷の妹(か姉)が嫁いでいました。政郷の子息とされる具盛も後々養子入りすることになります。

 

1477 北勢で一色氏と争う

文明九年(1477)に北畠氏と一色氏が北勢で合戦を行い北畠勢が勝利しました
幕府が北畠氏を守護から罷免しないまま一色義春を伊勢守護職に補任したことで現地で代官同士が揉めてしまったのが原因らしい。
この揉め事のせいで「北畠政郷が畠山義就に味方するんじゃ……」と警戒されたが、特にそういうことはなく伊勢守護職にも政郷が再任された。
この年には応仁の乱終結したが、北勢での戦争はそんな中央情勢とは関係なく続いた。

応仁の乱の時の伊勢国。北伊勢を巡る争いが繰り広げられたらしい。っていうか世保氏は東軍なの?西軍なの?

 

1479 伊勢守護職を罷免される

文明十一年(1479)八月、北畠氏が「上意を違えた」として突如、伊勢守護を罷免されました。
なにが幕府の逆鱗に触れたかは不明なものの、さすがにこの扱いに北畠政郷も怒ったようで、幕府との関係にも亀裂が入ってしまいます。
畿内で幕府に逆らい続けていた畠山義就からの出兵要請に応じるなど敵対行為を見せ始めます。幕府の奴ら舐めくさりやがって……

 

1479 北勢で大敗する

文明十一年(1479)十一月、畠山義就に味方するぜ!」と息巻いていた北畠政郷でしたが、その直後に北勢へ出兵して長野政高相手に大敗北を喫しました。
興福寺大乗院の日記(『大乗院寺社雑事記』)には「国司の儀、正体有るべからず…」と記されており、かなりの大敗だったようです。
政郷は神戸城(沢城)へ逃げて籠城したものの武力では事態を打開できず、翌年三月に大和国人の越智氏の斡旋で和睦しています。なおこの時、北勢の北畠方武士たちが帰国を押し留めたため翌月まで帰国が遅れてしまっています。
その四ヶ月後の八月には長野政高が鈴鹿郡の関一党と争い始めたため、政郷は関一党に味方して長野氏を攻めて今度は勝利しました。(和睦とはなんだったのか)
また北畠政郷は神戸城に籠城中に名前を「政勝」に変えています。以前は政郷と政勝は別人と考えられてきましたが、近年の研究で同一人物と判明しています。
(ここではいちいち名前を変えても面倒なので政郷で統一して書いていきます)。

長野氏との合戦に敗北した政郷は神戸城へと逃げ延びて籠城。ちなみに写真は神戸城ですが、当時の神戸氏本拠は神戸城の数百メートル南西にあった沢城なんでこの写真の神戸城とは実は関係ない。写真があったからとりあえず載せた。

1482 赦免される

文明十四年(1482)四月、畠山義就に味方して軍勢を派遣しています。この軍勢は内房が率いており、伊賀国名張衆が中心だったとされています。
文明十六年(1484)には畠山義就が幕府に赦免された事で北畠氏も赦免され伊勢守護職にも再任。
この赦免に合わせてのものなのか、北畠政郷は隠居して大御所となり家督を嫡男北畠材親(読みは「きちか」で、この時の名前はまだ具方)に譲りました。ただ材親が伊勢国司として正式に活動を始めるのはこの三年後とされています。

 

1486 山田への出兵と外宮炎上

文明十八年(1486)に北畠氏の軍勢が自治都市伊勢山田へと出兵。山田の軍勢を宮川で破り、山田側の反北畠派リーダーである榎倉の村山掃部を自害に追い込んでいます。
戦いには勝利した北畠・宇治連合軍でしたが、山田の町は炎上してしまい、しかも村山掃部が外宮に立て籠もって火をつけて自害したことで外宮正殿までもが焼失してしまいました。最悪。(仮殿を作る費用は出した)

山田(外宮)は宇治(内宮)と以前から対立しており、北畠氏は一応その調停者として動いていました。
しかし宇治山田の対立だけではなく、神領への勢力拡大を続けたい北畠氏とそれを快く思わない山田との対立も同時に存在しており、最終的に北畠氏は宇治に加勢する形で争いに参加しています。
山田の町は自治都市であり、複数の郷の有力者(御師、高利貸しなど)が山田三方と呼ばれる自治組織を作って運営していました。北畠氏は有力者たちと被官関係を結んで緩い形で支配下に置いていましたが、山田側には北畠氏が自分たちの領域へ侵食を続けることや宇治に味方することへの不満は強かったようです。
他にも山田の高利貸しから金を借りて所領を失った牢人衆を北畠氏や愛洲氏が支援していたらしい。

ちなみに『勢州軍記』ではこの山田合戦が天文年間の出来事になっていて、行ったのも北畠晴具になっている。Wikipediaでもそれを採用しているのか天文三年に宮川の戦いで山田勢を破って両門前町支配下に置いたことになっている。天文初期にも山田との抗争はあったので、たぶんごっちゃになっちゃったんじゃないかな……。

宮川。ここを越えると外宮と門前町山田がある。

宇治と山田がとにかく仲が悪い。

 

1487 幕府から詰問される

長享元年(1487)、足利義尚が近江へ出兵し、北畠氏も参陣しました。(勾の陣)
しかしこの直後に国司不快」として足利義尚から河内(畠山義就)、美濃(土岐氏)、大和(越智氏)と並んで北畠氏も討伐対象として名指しされてしまいます。
旧西軍や畠山義就に近いメンバーであることから牽制目的であったと考えられています。
さらに翌長享二年(1488)には幕府より詰問が行われました。

 

幕府からの詰問↓
「なんで伊勢神宮へ向かう道に勝手に関所を設置してんの?」
「在京奉公しろや」
「なんで神三郡を横領してんの?」
「外宮を燃やしたやろ?」

 

これに対して北畠氏は


「領地が少ないから関銭を家臣に知行として与えている。許可はとった。」
「国務のため自分は在国している。代わりに一族の木造氏を私費で在京させている。」
「神三郡の地下人たちが調子に乗ってるから国司として成敗しているだけ。神事には口出ししていない。」
「外宮炎上は山田(外宮)と宇治(内宮)の争いによるもので、自分たちは内宮に手を貸しただけ。」

 

こんな感じで回答しました。
特に揉めた形跡もないためこれでOKだったらしい。細川政元の取りなしがあったのではとも考えられています。
というか翌年には将軍義尚が急死しているのでどうでもよくなったのかも。

 

1489 将軍交代

長享三年(1489)、将軍足利義尚が病死して従兄弟の義材(義稙)が新将軍に就任しました。
(義稙の方が有名ですが、ここでは義材で統一して書いていきます)
北畠氏はこの義材(義稙)とは良好な関係を築きました。北畠材親(具方)の「材」はこの義材から偏諱として貰ったものになります。
延徳三年(1491)の六角征伐では伊勢国司」も参陣リストに載っているので材親も軍勢を率いて出陣したようです。
しかし明応二年(1493)にクーデター(明応の政変)が起こり義材が失脚してしまい、足利義澄が新将軍となります。失脚した義材もそれで諦めることなく将軍復帰を目指したことで将軍家が分裂してゴタゴタしてしまいました。
一応この時期の北畠氏は義材派であったのではないかとされます。

 

1489 山田がまた燃える

延徳元年(1489)六月、山田の軍勢が宇治四郷を襲撃する事件が起こりました。北畠氏の出陣も噂されたようですが結局行われず宇治が敗退
宇治には牢人堪忍料として山田に関所を三ヶ所設置することを許可する措置がとられました。しかし三年後には宇治が「約束の三年経ったけど関所は一ヶ所残してくれんか?」とか言い出し、山田側は不満を高めます。
そして明応二年(1493)についに山田側の不満が爆発し挙兵、磯城に籠城します。
北畠氏は「緩怠」として出兵、八月二十二日に磯城を攻め落としました。山田側の討死溺死は千人余とされ反北畠勢力は大打撃を受ける事になります。『神宮年代記抄河崎』は「山田が荒野に成った」と記しており、山田の町もかなり大きな被害が生じたようです。

 

1497~1503 国司兄弟合戦

明応四年(1495)十月、北畠氏の重臣たちが対立する重臣の処分や棟別銭免除や徳政を求める申状を材親に対して提出しました。


「あいつらクビ(だけ)にしろ!家族も追放!棟別銭も免除しろ!徳政もやれ!」

という過激な訴えです


この時期は支配制度の変革が行われており反発する家臣らも多かったようです。
しかし材親はこの申状を認めず、訴えを起こした重臣の一部から扶持を没収するなど厳しい対応をとりました。納得いかなかった一部の重臣は反乱を起こして翌明応五年(1496)一月には田丸城を攻撃しています(山一揆)。これだけなら一部重臣による反乱を鎮圧すればよいだけのものでしたが、思わぬ形で乱は拡大しました。


明応六年(1497)、反乱を起こしていた大宮勝置、高柳方幸らが材親弟の北畠師茂(木造師茂)を擁立したのです。師茂義父で有力一族である木造政宗もこれに加担し、反乱は有力一族も交えた北畠家督を巡る争いへと発展
さらに追い討ちをかけるように大御所北畠政郷までもが材親を裏切り師茂へと味方材親とその生母を幽閉してしまいます(「父親入道取籠之(中略)是侍従(師茂)方引汲之故也…」)。
政郷と材親は二頭政治を行っていましたが、この時期にはどうにも関係がよくなかったようです。本所(北畠氏当主)として政治を行っていたのは材親ですが、家臣の中には大御所政郷を頼ることで同族から独立しようと試みる者がいたり、材親のところで裁判を起こす前に政郷の許可を得ていたりと家督である材親とは別の権力者として政郷を利用しているような動きがありました。親子の仲が悪くなっていったのはこのあたりが原因ではないかと考えられています(政郷も家臣達に突き上げをくらって動いてただけかもしれませんが…)。


幽閉されてしまった材親でしたがなんとか軟禁を脱したようで、その後は一族や家臣を率いて木造城を攻撃。戦いは材親方が優位に進め落城寸前まで追い詰めます。


しかし今度はこのタイミングで隣国の伊勢長野氏が師茂方として介入。材親勢の背後を急襲したことで材親方は有力一族の大河内親文らを失う大敗を喫してしまいます。(「長野勢ウシロツメニアカリテ大合戦ナリ。国司方打負け、六七百人被打云々…」『中臣師淳記』)。かなり大きな敗北だったようで『後法興院記』では「兄方難儀」と記されています。材親の苦戦が諸国に伝わっていたようです。


……ですが、またしても戦況を一転させる出来事が起こります。材親を裏切っていた父北畠政郷が木造城から師茂を連れ出して材親の元へ出頭させたのです。
「息子と妻を幽閉までしといてどのツラ下げて……」って感じですが、これによって師茂は切腹させられ家督争いは材親の勝利で終結しました。長野氏の介入が政郷的にボーダーラインだったらしく、早期終結のため師茂を投降させたのではないかと考えられています。
ただ師茂義父の木造政宗は降伏せず抵抗を続けました。後土御門天皇が和睦を望んでいますが成立せず、結局六年後の文亀三年(1503)にようやく和睦が成立しています。和睦後は木造城を国司家(北畠本家)が接収して沢方満を城代として入れ木造城領を管理させています。木造政宗らは戸木城へと移りました

状況が二転三転した北畠氏の内戦

 

1498 明応地震

明応七年(1498)八月二十五日、東海地方を大地震が襲いました
各地の沿岸を津波が飲み込み、伊勢・志摩でも大湊で五千人が流死安濃津は二十四年後の史料にも「荒野」と表現される壊滅的被害を受けました。『内宮子良館記』は「伊勢島間(伊勢志摩)ニ彼是一万人計リ流死也」と記しています。
北畠氏はこの時まだ木造政宗と抗争中でしたが、明応六年八月の師茂切腹後から文亀三年(1503)の和睦までに合戦をしたという史料がないので、もしかすると地震津波影響で軍事行動を起こせなかったのかもしれませんね。

あまりにもでかすぎる津波の被害。怖い。

 

1505 足利義材の復活

永正二年(1505)、北畠材親は将軍足利義澄から伊勢守護職を罷免されます。これによって特に問題が発生したということはありませんでした。
永正三年(1506)には相可で一向一揆が起こり、八月に北畠氏が相可城を攻め落としています。北畠氏と同じく義材派(義稙)だったとされる越前朝倉氏も同時期に加賀一向一揆による大規模な攻勢を受けていることから、細川政元による策謀だったのではないかとも考えられています。
永正五年(1508)四月には足利義材(義稙)が大内義興細川高国畠山尚順らに支援されて上洛。六月に義澄を追放して翌月には再び義材(義稙)が将軍となります。
なおこの永正五年(1508)十二月には先代当主である北畠政郷が亡くなりました。

 

1509 三好長秀を討ち取る

永正六年(1509)、伊勢国へと逃げてきた三好長秀を北畠氏が伊勢山田で討ち取りました。この件に関して将軍や幕府関係者たちから感謝されている手紙が何通か残っています。
北畠材親は義材(義稙)政権の中心人物の一人である細川高国との結びつきを強め、翌永正七年(1510)には義材派として軍勢催促を受けています。

 

1517 材親死ぬ

永正十四年(1517)、数年前から腫物を患っていた北畠材親が五十歳で亡くなります。
政郷、材親の時代は神三郡への侵食、領国支配の改革、内乱と様々な苦難を乗り越え北畠氏が戦国大名として確立された時代でした。あまり知られてはいないですが伊勢北畠氏にとっては非常に重要な時代ですね。
材親が死んだことで北畠氏当主は嫡男の北畠晴具が継いでいます(初名は親平でその後は具国ですが、晴具で統一して書いていきます)。この時はまだ十五歳でした。
なお家督を継いだ翌年に晴具は官位の昇進を朝廷に望みましたが、これには在京していた公家の中御門宣胤が日記に不満を書き記しています。在京して天皇のために尽くすわけでもないのに官位の昇進には熱心という北畠氏は、在京する公家からはちょっと嫌われていたようです。禁裏の修理費すらも出し渋るしね。そもそも官位の昇進以外は存在がほぼ武家化している。

北畠晴具の肖像画
まぁこれは本物ではなく私が勝手に想像で描いた令和四年製のものですが。

 

1521 細川高国と仲良くする晴具

永正十八年(1521)には足利義材(義稙)が追放され、新たに足利義晴が将軍となっています。北畠氏は義晴を支援した細川高国との関係を重視して義晴を支持したようです。
大永五年(1525)にはその足利義晴から晴の字を偏諱として貰い晴具と名前を変えました(親平→具国→晴具)。また時期は不明ですが細川高国の娘を正妻に迎えていて、享禄元年(1528)には嫡男具教が生まれています。
大永六年(1526)二月、北畠晴具が上洛します。伊勢国司家当主の上洛は三十五年ぶり。全然上洛していないぞ公家なのに。上洛した晴具は義父の細川高国の屋敷に招かれ、犬追物、猿楽、酒宴と連日歓待されています。
しかし享禄二年(1529)にはその細川高国畿内での抗争に敗れてしまい北畠晴具を頼って伊勢は落ち延びてきます。しばらく保護していた北畠氏でしたが、復帰を目指す高国への直接的な軍事支援は断ったらしく高国は伊勢を離れます。そして享禄四年(1531)に高国は摂津国で敗れて自害しました。(大物崩れ)
高国はいくつか辞世の句を詠んでいますが、その中には婿である北畠晴具に贈ったものもありました。


絵にうつし 石をつくりし 海山を

のちの世までも 目かれずや見ん


北畠氏居館にある庭園についてのもので、今も北畠氏館跡に残るこの庭園は細川高国の作庭と伝わっています。

北畠氏館跡庭園。細川高国の作庭と伝わる。

 

1532 山田との抗争

天文元年(1532)、山田の軍勢によって田丸が攻撃を受ける事件が起こりました。
山伏が何者かに殺害され、それに怒った山田が田丸を攻めたようです(山伏は田丸にあった浜塚権現を参詣しなかったことから殺されてしまったと云われます。山伏の素性はよくわからん。)
晴具が軍勢を派遣してこの争いは鎮められましたが、「神宮に弓を引く事勿体無し」として山神三郷が加勢を拒否して翌年北畠の軍勢に攻められています
すでに神領は北畠氏支配下にありましたが、その支配は必ずしも強いものとは言えなかったようです。
また天文年中となっていて詳細な時期がわからないのですが、『勢州軍記』には「田丸兵乱」という争いも記されています。池山伊賀守、山岡一党が北畠氏に逆心を企て田丸城を攻撃。田丸城にいた北畠政郷四男の田丸弾正少弼顕晴は自害に追い込まれ、慌てた晴具が田丸へ出陣して乱を鎮圧したというものです。
ただ同時代史料では確認できない出来事で、どこまでが事実なのかは不明です。田丸氏が史料上確認できるのも天文五年生まれの晴具三男の田丸具忠からなので、田丸弾正少弼顕晴という人物が本当にいたのかもよくわかっていません。

 

1536 晴具出家と家督譲渡

天文五年(1536)七月に北畠晴具が出家。天祐と名乗っています(ここでは晴具で統一して書いていきます)。
この晴具が出家したあたりで形式上は嫡男の具教へ家督を譲ったと考えられていています。とはいえ具教はまだ九歳なんで実権は晴具が持ったままですけどね。天文八年(1539)二月には公家が既に家督を具教が継承したものとして扱っている形跡があり、一応は対外的にも家督は具教ということになっていたようです。
天文九年(1540)には幕府から足利義教百年忌の仏事銭を、朝廷からは禁裏修理費を求められました。足利義教百年忌の仏事銭は三千疋(三十貫文)を納めたが、禁裏修理費は「難しいッスね…」と納めなかったらしい。公家なのに……

 

1541 具教が行政に関与し始める

天文十年(1541)、この年から具教本人が行政関係の文書を出すようになっています。家督自体は形式上継いでいましたが、伊勢国司家当主としての仕事を行うようになったのはこの年からのようです。
ただ天文九年(1540)十二月には具教の奉行人である教兼が奉行人奉書を出しているので、もしかしたら天文九年からもう行政に関与し始めていたのかもしれません。
この時期からしばらくは晴具・具教の二頭政治体制となっています。
(『三重県史 中世』)

 

1542 蟹坂合戦

天文十一年(1542)九月、北畠氏が悪党どもを近江六角氏領へ差し向けましたが、六角氏重臣の山中秀国がこれを追い払いました。
しかし今度は北伊勢の武士たちが一揆を起こし山中へ侵攻するとの噂が流れ始めたことから山中秀国は国司の謀略や!」と六角定頼に報せ、六角氏は甲賀、粟太、蒲生三郡の旗頭衆に山中への出陣を命じます。
翌十月、北畠勢は木造具国(具国は晴具の旧実名なので、たぶん時期的に木造具康?)を大将に一万余で鈴鹿口より近江へと侵攻しました。
これを聞いた六角勢は山中から蟹坂へと移り北畠勢を待ち受けます。蟹坂で六角勢が待ち構えていることを知らなかった北畠勢は不意を突かれる形となり、一度退いて立て直そうとしますが混乱を止められず敗退しました(蟹坂合戦)
その後は公方(将軍)の斡旋で両者は和睦鈴鹿峠の上を六角・北畠の国境と定めることになり、さらに六角氏の娘を北畠晴具の嫡男具教に嫁がせることが決まりました。
……この蟹坂合戦は『淡海恩故録』という江戸時代の史料にある合戦で、同時代史料には見えないものなのでどこまで事実かはわかりません。
ただ北畠具教の正妻が六角定頼娘なのは『勢州軍記』にもある内容なので、彼女が嫁いできた理由としては説明がつきますし、北勢へと勢力を拡大する六角氏と伊勢側勢力との確執は存在したでしょうから戦いが起こることに矛盾があるようにも思えません。なので個人的には概ね事実なのではないかなぁ…とやんわり思っています。

現状、事実かどうかはなんともわからない蟹坂合戦。

 

1543 山田がまたまた燃える

天文十二年(1543)四月、宇治と山田が抗争を起こしました。四月二十三日から内外道が止まりましたが八月には和睦して停戦となったようです。
この年の七月には長野氏が合戦を行い大勢の死者が出たようです(『多聞院日記』)。合戦の相手が書かれていませんが北畠氏でしょうか?
また天文十四年(1545)の陰陽師への安堵状を最後に北畠晴具の行政関係の史料が見られなくなります。晴具はこの頃には行政の第一線から退いたようです。
(『三重県史 中世』)

 

1547~1551 鷺山合戦・八太の長陣

天文十六年(1547)五月、北畠氏と長野氏の戦争が始まりました。
ちなみに開戦直前の四月頃に北畠具教には嫡男となる具房が誕生しています。
戦争の発端は長野氏家中の家所氏が謀叛を起こし(「此度家中錯乱」)、それを北畠氏が支援したことによるのではないかと考えられています。(「家所御味方申し付けられ…」)
北畠方の本陣は八太に置かれ、「八太之長陣」と記されるような長期戦となりました。戦場は垂水鷺山、垂水口、八太口、神戸、家所前、安部口、下之口と次第に長野城方面へ移っている事から北畠氏が優勢であったのではないかとされています。
『勢州軍記』でも「長野輝伯事」で垂水鷺山で合戦があったことを記しており、長野方は七つの備えを設けて七度鑓を合わせたが勝負は付かなかったとしています。
史料上では天文二十年(1551)までは戦いが行われていたようですが、最終的にどのように決着したかは不明です。
(『三重県史 中世』)
(稲本紀昭「北畠国永『年代和歌抄』を読む」)

なんて呼べばいいんですかねこの戦争。

 

1553 関所が開けられる

天文二十二年(1553)、北畠晴具(天祐)が病気(歓楽)になったので、伊勢神宮での病気平癒の祈祷のために北畠氏は南勢の関所を開けました関所フリーになったことで各地から神宮へ数多くの参詣者が訪れたようです(「関アカル、諸国ヨリ旅人不知数…」)。
北畠氏にとっては貴重な収入源である関銭を稼いでくれる関所ですが、伊勢神宮へ参詣したい人や参詣しに来てほしい神宮側にとってはかなり迷惑なものでした。

 

1555 今川氏の伊勢・志摩侵攻

天文二十四年(1555)六月から七月頃に駿河今川の軍勢が伊勢・志摩へと襲来しました。
「御本所(北畠具教)」が大河内城まで出馬し、重臣の家城式部大輔も田丸城に在陣しています。
あまり知られていない出来事ですが、軍記物等ではなく北畠家臣の佐藤信安が記した『佐藤信安置文』や北畠国永の和歌集『年代和歌抄』など当事者が記したものが出典なのでどうも事実のようです。
ただ今川氏がなぜ「志摩とらむ」と攻めてきたのか、そしてどう和睦に至ったのかはまったく不明で、謎の多い事件でもあります。

 

1556 二見攻めと山科言継来訪

弘治二年(1556)二月、北畠勢が二見郷を攻めています。「二見御成敗」の奉行人奉書があり、『神宮年代記抄(河崎)』にも「国司ノ人数百計ウタル」と記されています。外宮炎上から半世紀以上経っても神領の連中とはたびたび揉める北畠氏でありました。

弘治三年(1557)三月、永禄元年(1558)八月と山科言継が来訪。朝廷の儀式費用を求めたようで、北畠氏は三千疋(三十貫文)を納めています。
興味深いのは、この弘治三年から永禄元年は北畠領国で「酒が停止させられていた」と山科言継が日記に記していることです。言継来訪から数日後には解禁されたようですが、なぜ酒を停止していたのかは不明です。凶作だったのでしょうか?

 

1558? 長野氏の服属

永禄元年(1558)頃、北畠氏が長野氏を服属させ、具教二男の二郎具藤が長野氏へと養子入りしたとされます。
まぁ……この時期とされていますが、はっきりとした史料はありません。『勢州軍記』では永禄の始めとなっていますし、そもそも『北畠御所討死法名』では具藤の年齢は天正四年(1576)で十九歳なので永禄元年(1558)ではまだ乳児です。本当に永禄元年なんだろうか?
長野氏が服属したこと自体は事実なようで、永禄八年の長野氏奉行人奉書では「本所様(北畠氏当主)の御意」を仰せ付けられています。
長野氏が北畠氏に服属した理由として考えられているのが、近江六角氏の北伊勢での勢力拡大です。天文年間には桑名の支配を長野氏から奪うなど北勢地域での影響力を拡大しており、家を守るのにはやむを得ない決断だったのでしょう。(北勢諸勢力と六角氏や北畠氏との関係はやや複雑でわかりづらい部分も多い)

六角氏の勢力が浸食していった北伊勢地域

 

1559 長野氏の北勢出兵

永禄二年(1559)、長野勢五千人が赤堀氏を攻めるため北勢へと出兵しました。北畠氏もこれに援軍を出したとも言われますが詳細は不明です。北勢に上陸した長野勢は赤堀勢と塩浜で戦いましたが敗退して多くの将兵を失ったとされます。
翌年にも長野氏は北勢へ出兵。『勢州軍記』にある神戸城攻事、赤堀城攻撃事がこの戦いのことと思われます。北畠氏は一族の波瀬御所を大将とする軍勢を援軍として派遣したようです。負けましたが。
『勢州軍記』では神戸氏、関氏ともに六角氏重臣蒲生定秀の婿となって六角氏に従属。長野氏は北畠氏に従属。六角氏と北畠氏は婚姻関係にあることからその二つの家にそれぞれ従属している長野と関、神戸らの関係も収まっていった……わけではなかったようで、永禄中頃に「長野と関は互いを滅ぼそうと争っていた」とされます。なんでや仲良くせい。
正直、この時期の赤堀氏、関一党、神戸氏、長野氏らの関わり合いは、いまいちわからないことが多いです。

 

1560 松永久秀の大和侵攻

永禄二年(1559)八月、三好長慶重臣松永久秀大和国へと侵攻しました。
大和国宇陀郡を領有する北畠氏も無関係でいられず筒井氏、井戸氏、喜多氏、豊田氏らと連携して争うことになります。北畠具教は数多の城を築かせ、守道城に秋山藤七郎を入れるなど防備を整えています。
しかし翌永禄三年(1560)十一月、松永久秀による宇陀郡侵攻が行われ、瞬く間に宇陀郡は三好方の手に落ちてしまいました
いよいよ三好勢による伊勢侵攻の危機が迫りますが、そうはなりませんでした。翌永禄四年(1561)、三好氏は六角氏、畠山氏の挟撃に晒されてしまい「伊勢とかに構ってる場合ではない!」という状況になったためです。
宇陀郡から没落した沢氏は北畠氏重臣として活動しながらその後も宇陀郡復帰を狙いました。秋山氏は大和側の勢力に従って動いたという説もありますが、沢氏が秋山氏の所領を違乱したことを永禄六年に北畠具房が責めているのでその後も秋山氏は北畠氏に従っているように見えます。よくわからん。
この秋山氏については『勢州軍記』で秋山謀反という内容が永禄始めの出来事として載っています。秋山遠州が三好の婿となって北畠氏に背いたために討伐され、父である秋山宗丹(宗誕)を人質に出して降伏。家督を弟の秋山右近将監が継いだというものです。どこまで事実かは不明ですが、永禄五年の北畠具房書状に秋山宗誕の名前が出てくるので父親に関しては実際に存在した人物のようです。

イケイケな三好勢の前に宇陀郡が一瞬で陥落してしまった

 

 

その2へ続く

dainagonnokura.hatenablog.jp

 

(出典や参考文献を載せて文章のあちこちに載せてたんだけど、読みづらすぎて最後にまとめました。そもそもこんなん素人がブログでやることではない気もするけど…)

主な参考文献

三重県史 通史編「中世」』
三重県史資料叢書北畠氏関係資料』
三重県史』 通史編「中世」
三重県史』 資料編「中世1~3」
大薮海『応仁・文明の乱と明応の政変』(吉川弘文館 二〇二一年)
大薮海『室町幕府と地域権力』(吉川弘文館 二〇一三年)
大薮海「幕府から武力を期待された公家衆―伊勢北畠氏」(神田裕理編『ここまでわかった戦国時代の天皇と公家衆たち【新装版】』)
小林秀「戦国期における畿内近国大名の権力構造」
伊藤裕偉「中世後期木造の動向と構造-北畠氏領域における支城形態の一事例-」
藤田達生編『伊勢国司北畠氏の研究』
吉井功兒「伊勢北畠氏家督の消長」
稲本紀昭「北畠国永『年代和歌抄』を読む」
金松誠『松永久秀
天野忠幸『松永久秀と下克上』
大西源一『北畠氏の研究(復刊)』
勝山清次・飯田良一・上野秀治・西川洋・稲本紀昭・駒田利治編『新版県史 三重県の歴史』
……など。
詳しくは参考文献リストや史料リストをどうぞ

dainagonnokura.hatenablog.jp

dainagonnokura.hatenablog.jp