大納言の倉

戦国時代のことを素人のおじさんがなんとなくで書き記します。

戦国大名伊勢北畠氏の歴史 その3(1570~1576)

戦国大名伊勢北畠氏の歴史 その3
具房上洛(1570)~三瀬の変(1576)までになります。

 

その1、その2の続きです。

dainagonnokura.hatenablog.jp

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1570 北畠具房の上洛と元亀争乱の発生

元亀元年(1570)二月、義昭・信長は全国の諸勢力に対して上洛を要請しました。上洛を求める触状が送られた勢力の中には「北畠大納言」の名前もあります。具教は大納言ではなく中納言なんですけどね(北畠大納言家ということなんでしょうか?)。信長と和睦した北畠氏は徳川家康、三好義継らと同様に足利義昭を支える勢力として扱われ、義昭の政権構想の中に組み込まれていました。
四月には伊勢国司北畠中将卿(具房)」が上洛し、京で諸大名らと能を鑑賞しています(『信長公記』)。伊勢国司が上洛するのはたぶん大永六年(1526)の晴具以来44年ぶり。一応公家のはずですが、全然上洛してない。本家も分家もみんな在国が状態化していて伊勢北畠氏の存在はやはりほぼ武家化しています(で、でも鮑とか茶を贈ったりはしてたはずだから…)。
この具房上洛の直後、信長が大軍を率いて若狭・越前へと侵攻しました。信長の伊勢侵攻直前の永禄十二年八月十九日付朝山日乗書状でも「阿波、讃岐(三好)か又は越前(朝倉)か、両方に一方可被申付躰候…」と触れているので、北畠氏の次は越前朝倉氏の順番だったらしい。
しかし浅井長政が突然寝返ったことで信長は退却を余儀なくされ、信長はそこから朝倉、浅井、三好、本願寺らと激しく争うようになりました。最近は元亀争乱とか呼ばれますが、昔は第一次信長包囲網とか呼ばれてた気がする。(信長の野望のシナリオだと新生でも信長包囲網だった)
この争乱に対して北畠氏が軍事行動を起こして信長や義昭を支援した形跡はみられません。元亀二年(1571)までは伊勢国内が天花寺氏の曽原籠城によって領国内が「騒動」となっていたためかもしれませんが、それ以降でも別に織田を助ける動きは見せてはいません。
一般的に永禄十二年(1569)で北畠氏は織田信長に従属したとして扱われることが多いのですが、この時期に援軍を出していないところを見ると「信長に従属したという認識は間違いなのでは?」と思います。北畠氏が従ったのはあくまで足利義昭なのでしょう。それにしても義昭にすら援軍は出してませんが。なんで?

 

1571 茶筅元服

元亀二年(1571)には養子となった茶筅元服して「具豊」と名乗り、義父となる具房は妹(千代御前、雪姫)を養女とした上で具豊(茶筅)の正妻としました。
茶筅」という名前は通称としても使用されてたのか、この後もそう呼ばれていることがあります。どうも世間的には「茶筅」で通じていたらしい。(公家の日記や家臣の書状でも茶筅とか茶筅様とか書かれてる。信長公記もお茶筅公。)。
具豊(茶筅)の祝言は船江城で行われ、その後は大河内城へと居を移しています。
ただ元服時期に関しては諸説あり、元亀三年正月もしくは四月に信忠、信孝と共に三兄弟が同時に元服したという説も存在します。
茶筅の名前は具豊、信意、信直、信勝、信雄と変遷したとされます。信雄が一番著名ですね。ちなみに信雄の読み方は「のぶかつ」「のぶお」系図でも併記されていて、よくわからない。
どちらの読みも間違っていなくて公家だと雄が上にあれば「かつ」と読み、下にあれば「お」と読むから豊臣政権下で公家成した時に「のぶお」と読むように改めたのではないか?……という説もある(『翁草:校訂12』花山院前大納言定成卿の説らしい)。なので偏諱を貰った人はだいたいが「かつ○○」と読むが、下にある信雄や秀雄、良雄が「○○お」になっている。ただこれも一つの説に過ぎないので正解なのかはわかりません。一応、私は「のぶかつ」で呼んでいます。

 

1572 具房、いつの間にか右中将になる

元亀三年(1572)三月、北畠国永が具房に和歌を詠んで贈っている(『年代和歌抄』)。
この中では「中将具房」となっており、具房がいつの間にか中将になっていることが判明します。
これは三条西実隆が具房に与えた有職故実書『三内口決』でも「正四位下行右近衛権中将源朝臣具房」となっているので間違いありません。
というか『信長公記』でも永禄十三年の四月に上洛した際に「伊勢国司北畠中将卿」となっている。永禄六年『補略』(公家の名簿)では少将だったので、つまり永禄六年から永禄十三年四月の間に昇進しています。
しかしなぜか元亀二年の『堂上次第』(公家の名簿)では「北畠少将具房 伊勢国司」となっていて少将から昇進していない。それどころか元亀二年、元亀四年、天正四年の『堂上次第』はすべて少将となっている。
(「天正四年の『堂上次第』について-特に滅亡前夜の北畠一門に関する記載を中心に-」赤坂恒明)

北畠具房……おま

公家たちから昇進したこと忘れられてない……?

 

1573 武田信玄に協力を約束する具教

元亀三年(1572)の冬、武田信玄織田信長との同盟を破棄して徳川領へと侵攻を開始。遠江を席巻した武田勢は十二月には三方ヶ原で徳川家康を破り、年が明けると三河まで進軍し野田城を包囲しました。
さらにこの状況で将軍足利義昭までもが信長を見限って挙兵してしまい、朝倉・浅井・本願寺・三好と抗争中であった信長は一気に苦境に陥りました。
こうした中、北畠具教は三河在陣中の武田信玄へと使者(鳥屋尾満栄)を派遣。信玄に「いくらでも船を出して協力するぜ!」と約束したといいます(『勢州軍記』『甲陽軍鑑』『総見記』『伊勢国司記略』)。
がっつりと信長を裏切っています(いやその前に足利義昭が信長を裏切ってるから……北畠氏の立ち位置はどういう扱いになるんだ???)。
しかしこの企ては武田信玄が翌四月に撤退、間もなく死去したことで水の泡となりました。七月には足利義昭が追放され、八月になると朝倉義景浅井長政も滅ぼされてしまい包囲網は瓦解します。
競馬でいうと単勝1倍台の馬に大金を賭けたのに、容赦なくぶっ飛んだみたいな感じの北畠具教。予想家たちの「鉄板級の一強本命馬!」みたいな予想を真に受けてしまったのかもしれないね。かわいそう。でも博打は自己責任なので仕方ないね!

武田信玄に協力しようとしたが、信玄が撤退&病死したので未遂に終わった。

 

1573 大湊への出船要請

天正年間になると北畠氏の織田信長に対する軍事協力が活発となります。
天正元年(1573)九月から十月には大湊に「桑名表」「北表」へ大船を出す催促や勝手に帰ったことを叱責した北畠氏の史料が多数残っています。
九月より信長が出馬して行っていた長島一向一揆攻めに海上からの支援を求められていたのですが、その中に勝手に帰港した大湊の船があったようです(そもそも大湊には長島の足弱(女子供)らを運んだりして協力している者もいた)。北畠氏は「言語道断の曲事!」と大湊へ再出船を要請しています。あまりに矢のような催促がなされているのですが結局船は出ていません。織田・北畠・大湊の間に立たされた担当者の鳥屋尾満栄に同情してしまいます。

この大湊への出船命令は信長からの朱印状を受けた具豊(茶筅)が九月二十日付の書状で津田一安を使者として実施を命じています。さらに義父である具房にも出船要請を依頼したようで、「本所(具房)よりもかたく御申つけ…」と書状に記しています。
しかし十月十三日には具房と鳥屋尾満栄が大湊に対して桑名への出船を厳しい言葉で指示しています。翌日には具教、具房が奉書を出して「当国の御一大事!」と大湊に再出船を催促し、さらに大河内城に行って申し開きするように指示。同日に大湊老衆は湯浅賀兵衛尉に船が帰港した件についての調停を依頼。しかし二日経っても出船しなかったようで、十六日付で催促する奉書や書状が三通も出されます。それでも船は出ず、十九日、二十日と鳥屋尾らが早く出船するよう命じています(船を出す気配のない大湊に対して鳥屋尾は「迷惑千万!」とキレ散らかしている)。
二十四日には「明日!必ず船を出せ!」と翌日必ず出船するように命じたが、その二十五日には信長が長島攻めに敗退して岐阜へ帰陣。大湊の再出船は結局間に合わなかった。
真面目に桑名に逗留していた船は伊勢・志摩へと帰港していったようで、大湊の船のうち一艘は九鬼嘉隆に預けたと鳥屋尾満栄が大湊へと連絡しています。
また二十七日付の湯浅賀兵衛尉守盛書状では「大河内に召され、信長の指図として船三艘を大湊へ預け置くと伝えられた」としている。大河内というとこの時は具豊(茶筅)の居城なので具豊を通じての指示なのでしょう。
二十五日には織田家臣の塙直政が大湊の廉屋七郎次郎が預かっている今川氏真の茶道具について詰問、二十九日には北畠具教、具房が信長に従って茶道具を差し出すよう命じている。腹いせなのか他人の茶器をカツアゲしようとする信長くん。

これまで信長の戦争へまったく関与してこなかった北畠氏ですが、この大湊への出船要請では具教も具房も鳥屋尾満栄と定恒父子、方穂久長ら譜代の重臣、奉行人に命じて再出船をしきりに促しています。湯賀守盛書状でも「是ハ信長様御さしつ…」となっているので北畠氏が信長の命令で動いているのは間違いありません。
一般的には永禄十二年(1569)の大河内の開城段階から北畠氏は織田信長に従属したとされることが多いですが、実際に従属的な立場になっていったのはやはりこの天正元年(1573)頃からではないでしょうか?

中間管理職(?)の悲哀。結局船は出なかった。

 

1573 信雄の初陣?

一般的には信雄(茶筅)の初陣は天正二年の長島攻めとされる……はずですが、もしかしたら天正元年には既に戦に出ていたかもしれません。
十月十三日付北畠具房奉行人奉書では「御方様御陣所」という文言が使われています(『三重県史資料編近世1』p129)。
北畠氏で御方様というと後継者のこと。つまりこの時期だと信雄(茶筅)のことになるのです。既に元服しているから信長に「来い」と言われて参陣していても別におかしくはないでしょうしね。
まぁあくまで推測なのでわからないですけど!

 

1574 信雄上洛?

天正二年(1574)三月、信雄(茶筅)が上洛……した?らしい。たぶん。
二十八日に信長が蘭奢待を切り取っているのでそれに合わせたものでしょうか?史料に年が書いてないので、ちょっとはっきりとはわからない。
具房が三月十日付で奉行人奉書を出し「御方様御上洛、来二十四・五日」として人足、伝馬等について指示。津田一安も三月十一日付「信長上洛被申候ニ付、御方様御供候…」と北監物宛に書状を出している。
『尋憲記』では「子チャセン(茶筅・信雄)ハ将軍罷成候」と信雄が話題に上がっているのでその場にいたのかもしれません。
(『三重県史 資料編中世2』『三重県史 資料編中世3中』『北畠氏関係資料記録編』)
ただ石水博物館の図録『佐藤家文書の世界』ではこの「御方様」を具房の妻としていました。
個人的に信雄(茶筅)のことかなと思っていますが……どうでしょう……。

 

1574 長島一向一揆の殲滅に参加

天正二年(1574)七月、ついに長島一向一揆の殲滅戦が行われました。
具豊(茶筅)を大将とする北畠勢も織田方として出陣しています。『信長公記』では七月十五日に国司茶筅公、垂水・鳥屋尾・大東・小作(木造)・田丸・坂奈井(坂内)・是等を武者大将として召列れられ、大船に取乗りて候て参陣なり」と記しています(いや大東って誰?他のメンバー的に大河内のこと?)。
北畠・九鬼らはかなりの数の船を集めたようでその光景は綺羅星雲霞」のようだったらしい。
元服した具豊(茶筅)が伊勢国司北畠氏の軍勢を率いる大将として活動し、そして大船を用意できていることから大湊を織田、北畠が掌握したことがわかりますね。
以前の大湊は北畠氏も完全に掌握していたわけではなく、お互いを利用するために形式的な被官関係を結んで自治を認めていたに過ぎませんでした。しかし織田の時代になると廻船衆への影響力は強められていき織田への従属度が増したと考えられています。
なおこの年は五月に具房がお忍びで伊勢神宮へ参宮しています。なんでお忍びで行ったのかは不明。悪いことしてたんですかねぇ……。

 

1575 長篠の戦いと信長からの黒印状

天正三年(1575)五月、具豊(茶筅)が北畠勢を率いて長篠の戦いに参陣しました(『勢州軍記』)。
信長・家康勢はこの戦いで武田勝頼勢を壊滅させる大戦果を挙げましたが、具豊(茶筅)は弟の神戸信孝、叔父の長野信包(信良から改名)ら伊勢の織田一族と共に中陣を守ったとされています。
また戦いの翌日、五月二十二日付で信長が北畠具教・具房父子へと黒印状を出しています。
具豊(茶筅・信雄)帰国の日は津田一安が伝えます。具豊帰国については納得したので津田から詳しく聞いてください。武田勝頼三河へ攻めてきたので十三日に出馬して昨日二十一日に長篠で戦い悉く討ち取りました。味方は怪我人が少々。追ってまた知らせます。」こんな感じの内容。(河内将芳「(天正三年)五月二十二日 織田信長黒印状写」(奈良史学37号 二〇二〇年))
翌六月に具豊(茶筅)は具房から家督を譲られることになるため、この家督相続に関連しての帰国とみられています。

長篠合戦段階では具豊(茶筅)はまだ家督を継いではいないものの、後継者として北畠勢を率いて軍事行動を指揮。北畠氏とはあまり関係のない織田氏の戦争への参加を重ねています。
長篠合戦で武田氏を破ったことで信長が天下人を意識したともされますが、そうだとすると北畠氏の家督交代はそうした信長や天下の事情とはあまり関係なく以前から進められていたのかもしれません。

 

1575 信雄へ家督を譲る

天正三年(1575)六月二十三日頃に具豊(茶筅、信雄)が家督を継承、伊勢国司北畠氏の当主となります。
具房はまだ二十九歳でしたが、早くも隠居することになりました。
伊勢国司ニ信長次男御所ト申キ、六月ニ家督ニ成テ伊勢国田丸ノ城ニ入アリ、悉シタカウ、神領ヲモ落サル、也」(『神宮年代記松木』)
この家督交代は実父である信長の意思が働いていたとされます(『勢州軍記』)。
ただ『日本人名辞典』では「具房病弱の理由を以て信雄(茶筅)を国司となすのを止むなきに至り…」となっています。話の元になった史料はおそらく『寛永譜(星合氏)』や『寛政譜』で、「所労(病気)」によって具豊(茶筅・信雄)を国司としたとなっています。また『足利季世記』でも具豊(茶筅・信雄)を養子とする際に病気で子供がいなかったと書かれていて具房の病気に言及しています。具房は肥満であったとされ、しかも若くして(三十四歳)亡くなっているので若いうちから病気であった可能性は十分考えられます。ただ同時代史料では言及がないので、病気説が事実なのかははっきりとしません。
まぁ……「具房の病気」と「信長の意思」は両立するのでどちらも家督交代の理由として正しいのかもしれませんが。
六月二十三日、伊勢国司家の家督が具房から茶筅(具豊・信雄)に譲られ、信雄は伊勢へと入国しました(『多聞院日記』)。「伊勢へ入国」となっているので五月の長篠合戦後、具豊(茶筅)は岐阜に滞在していたのかもしれませんね。
具豊(茶筅)はこの年の七月までに名前も「具豊」から「信意」に改名し北畠氏通字の「具」を捨てました。読みは寛永譜だと信意(のぶもと)になっています(これ以降、信意→信直→信勝→信雄と名前が変わりますが、面倒なので以降は信雄で統一して書いていきます)。
この改名には従来の北畠氏のあり方からの離脱を宣言する意味合いがあったと考えられています(ただし政郷や材親など偏諱により具を名乗らなくなった当主はこれまでにも存在する)。
さらに実父信長や兄信忠の昇進、任官に合わせて信雄も左近衛権中将に任じられ、本拠も大河内城から伊勢神宮や大湊に近い田丸城へと移転しました。田丸城には北畠氏有力一族の田丸氏がいましたが、田丸の南東にある岩出城に移ったようです。
北畠氏権力の体制は、それまで国司奉行人が務めてきた役割を織田一族で後見役であった津田一安らが務めるようになっています。もちろん鳥屋尾氏安保氏稲生氏も津田と一緒に連署しているので元々の北畠氏重臣らもこの信雄体制の中で重要な地位にいたと思われます。
…ただ天正三年十一月に信雄が出した判物とほぼ同内容の奉行人奉書が、翌天正四年五月に具教からも発給されています。世義寺先達坊への安堵状ですが、なぜ双方から同じような内容のものを受けているかは謎。この年にはすでに北畠国司奉行人の奉書発給は停止しており、家督を継いだ信雄と津田一安らを中心とした行政体制へと移行していました。しかもこの奉書は具教の奉行人、教兼単独署名のもので、具房奉行人の房兼は連署していない特殊な出され方をしています。具房の関与しないところで、領国支配に国司家が影響力を残せるよう具教が動いていたのではないかとも考えられています。
逆に信雄と国司家の連携と見る向きもありますが、いかんせんこの一例しかないためはっきりとしません。権力の継承がスムーズに進んでいなかった可能性はあるものの、これ以外では領国支配に関して両者が大きな齟齬をきたしているようには見えないのでよくわかりません。
北畠家督となった信雄は「御本所」家督を譲った具房は「中ノ御所」具教はそれまで通り「大御所」と呼ばれました。
北畠氏はこの天正三年(1575)を契機として織田権力の中に明確に組み込まれました。これ以後は織田の為に数々の戦場へと赴くことになります。

田丸城本丸の天守台。信雄は本拠地をこの城へ移した。北畠氏が田丸城へ本拠を置くのは南北朝時代以来なんと233年ぶり。

 

1575 具教と具房の動向

具房は家督を譲った後、信雄と一緒に田丸城へ移ったようです(『勢州軍記』)。
一方の具教は多気に残ったらしい。このあたりからも具教と具房で意識の差を感じなくもないですね。具教は翌天正四年(1576)七月までに多気から小石へ移り、さらにそこから三瀬へと移っています。
(「前の国司小石と云所におはすなり、たけ(多気)をば飽き給ふ…」『伊勢参宮海陸之記』)
また九月九日付で北畠中将宛(具房)に足利義昭から御内書が届いています。「私が京都に帰るための協力を毛利輝元に頼みました」みたいな内容。再び信長包囲網が組まれようとしていました。『堂上次第』では少将と書かれ続けている具房ですが、ここではちゃんと中将と書かれている。義昭は具房が中将だと忘れていない。素晴らしい。ありがとう義昭。(ただこの北畠中将が信雄の可能性も微妙にあるけど…)。

この義昭からのお手紙と、直後に起こる北畠一族の粛清が関係しているかは不明。でも義昭の動向が関係したと考える方が自然かもしれませんね。七月まで小石にいた具教が三瀬に移ったのも、もしかしたら義昭へ味方して挙兵するためだったのかも?

 

1575 越前一向一揆討伐

天正三年(1575)八月、『勢州軍記』には信長親子(信雄や信孝)が越前一向一揆の討伐に向かったことが記されています。『信長公記』にも信雄、信孝、信包の伊勢衆が参陣したとなっていますので、織田の戦争にまた北畠勢を率いて参加していたようです。

 

1575 熊野武士との戦い

天正三年(1575)、熊野新宮の堀内氏善が三鬼城(この時期は志摩国の南部)へと攻め寄せました。北畠氏に属する三鬼新八郎が堀内被官の曽根弾正と対立しいたことが発端で、この抗争は北畠氏の命で九鬼嘉隆が援軍に駆けつけ堀内勢を敗走させています。

これに関連する書状として天正三年十一月二十七日付の九鬼嘉隆書状写が残っていて、志摩国の越賀氏へ「参陣した功を三助殿様(北畠信雄)に申し上げておく」と伝えていいます。
しかし城を奪われた堀内勢は逆襲に転じ、九鬼勢が帰城するのを見計らって再び攻勢をかけ三鬼城を陥落させました。この時にどういう訳か三鬼氏が九鬼氏と不和になっていたせいで九鬼氏が援軍を怠ったとされます。(堀内氏が九鬼氏から妻を迎えたともいわれるのですが詳細はわかりませんでした)
天正四年(1576)、「三鬼城を奪還しましょうよ!」赤羽新之丞から進言された信雄は志摩国の長島城(紀北町)に加藤甚五郎を入れ、熊野侵攻を命じました。加藤は赤羽と共に南下して三鬼城を攻めこれを落城させます。
堀内勢は反撃すべく二千の兵で再び三鬼城へと侵攻、城を奪い返しました。敗れた加藤甚五郎は長島城まで退却して籠城。堀内勢は今度は三千五百の兵で長島城へも攻め寄せ、十日間絶え間なく城を攻めました。しかし加藤は三鬼での雪辱を果たすべく健闘。北畠氏の援軍が来ると信じて必死に防戦を続けます。

……しかし後詰にやってきた赤羽新之丞が堀内方へ寝返ってしまい、もはや万事休す。長島城は陥落し加藤甚五郎は滅亡。北畠方の侍は伊勢へと落ち延びていきました。(赤羽は自分で奪還しようと言い出しておいてさっさと寝返るのなんなん……)
天正三年からのこの熊野地域を巡る堀内氏との抗争は、かつて熊野武士が北畠氏の幕下にあったことから、人々は大御所北畠具教の存在が背後にあるのではないかと噂したといいます。

『勢州軍記』や古めの自治体史からの内容なので、出典がいまいちわからない部分も多いですが、九鬼嘉隆の書状写が一応あるので戦い自体はあったのではないでしょうか。

(『勢州軍記』『新宮市史』『尾鷲市史』)。

 

1576 信長への年始挨拶

天正四年(1576)正月、北畠氏重臣鳥屋尾満栄信長への年始挨拶のために岐阜へと赴きました。しかし信長は北畠氏からの進物を砂の上に置き、縁側で薙刀を振るい奥へと入っていった。これを見た鳥屋尾は信長が国司家を滅ぼすつもりなのだと悟ったという(『勢州軍記』)。
……本気で滅ぼすつもりであればわざわざそんな危機感を抱かせるマネはしないのでは…と思うのですけど……なんなん?。「妙な事はせず大人しくしてろ」という信長からのメッセージなのでしょうか……?
ちなみに翌二月には北畠具教が一族の北畠国永へと歌を贈っているのですが、自身の粛清を予感していたのかと思えるような歌となっているので紹介しておきます。

むかしかたり 今ひとたひと 思ふ身の
あすをもしらぬ 世をいかゝせむ

 

1576 具教騒動

天正四年(1576)十一月二十五日、信長の命を受けた信雄によって北畠具教が三瀬館で殺害されました。一般的には「三瀬の変」と呼ばれていますが、『勢州軍記』では第七「具教騒動」となっています。
『勢州軍記』では「具教らが信雄を蔑ろにしていた」というのを理由として挙げていますが、そもそも武田信玄に協力しようとしていたりするから蔑ろにしてなくても始末される運命だったような気がする。っていうか具教は結構いろんな人のこと嫌ってますね。具房(嫡男)、具房生母(正妻)、木造具政(弟)、信雄(養子)……軍記物なので本当かわからないですが「嫌いになったらもうとにかく嫌い!」ってタイプの性格だったんでしょうか。
殺害された具教は塚原卜伝に奥義一ッの太刀を伝授されたほどの達人であったとされています(『勢州軍記』)。具教剣豪説がどこまで事実なのかはわかりませんが、柳生宗矩が江戸時代になって書いた書状に伊勢国司が塚原卜伝の弟子だったことを記していて、また小川新九郎(信雄家臣)の覚書では一族の大河内式部大輔塚原卜伝から一ッの太刀を伝授されていたと記しているので、伊勢北畠氏のところへ塚原卜伝がやって来て剣を教えていたのは事実のようです。『勢州軍記』では塚原卜伝が弟子に「奥義の一ッの太刀は具教一人にしか授けてないから具教に教えて貰え」と言っているのですが、小川新九郎の覚書では大河内式部大輔にも伝授されてます。特に一人にしか教えないという訳ではないようです。
刺客(出仕してきた家臣)に突然襲われた具教は最初の一撃を見事に防ぎますが、裏切った小姓によって刀の柄と鞘が縛られており刀を抜くことができませんでした。剣の達人とされる具教といえども武器無しではどうすることもできず、刺客により討ち取られてしまいました。具教は怒って死んだと云います。戦いに状況など選べはしないとはいえ、刀を抜くことも出来ずに殺害されるというのはちょっとかわいそうではあります。せめて刀を抜いて戦いたかったでしょうね。
具教は殺される直前まで三歳と当歳の息子二人と炬燵に入って遊んでいましたが、その子供も庭と雪隠でそれぞれ殺害されてしまいました。妻や女房たちは泣き叫び、走り逃げ、それを目にする人々は涙で袖を濡らしたと云います。(『勢州軍記』)
具教の首は駆けつけた北畠家芝山小次郎大宮多気らが奪い返し「せめて首は多気に葬ろう」多気へ向かいました。しかし多気も攻撃を受けており、具教の安否を確認するため多気から三瀬へ向かっていた芝山出羽守と野々口で出くわします。多気に葬ることができないとわかった芝山らは野々口に具教の首を埋め、小次郎らは伊勢国司家を再興するため興福寺東門院にいる具教の弟孝憲の元へ向かい、芝山出羽守は野々口に留まり追手と戦った後に滝へ身を投げたと伝わります。(『伊勢国司記略』)

信雄は軍勢を派遣して具教を滅ぼすのではなく刺客を差し向けて殺害しましたが、『勢州軍記』によると信雄の家臣が城で粛清計画について話していたのを下女に聞かれてしまったせいで慌てて刺客を放ったらしい。不用心すぎる。

実行犯になったんは滝川雄利、長野左京亮、軽野左京進(藤方具就の家臣で代理)の三人でした。奥山常陸も具教粛清を命じられましたが、主君を討つことを躊躇い、涙を押さえ仮病を理由に引き返しました。所領加増の朱印状は信雄に返して出家したとされます。藤方は怖気づいてしまい家臣を代理として派遣しています。『勢州軍記』では藤方の父が不義を咎めて井戸に身を投げたとされていますが、『勢州軍記』の藤方刑部少輔と藤方具就は同一人物と考えられていて具就の父とされる北畠国永は天正十二年までは生存しているので……まぁたぶん作られた話でしょう。あるいは別の誰かが身を投げていたのかもしれません。

北畠具教最期の地、三瀬館。鹿のふんがたくさんあった。

 

1576 公達生涯

具房弟の長野具藤(二男)と北畠親成(三男)、従兄弟で義弟の坂内顕昌(具教娘婿)も田丸城で殺害されました。信雄から「一緒に朝ごはん食べようぜ!(^o^)」と誘い出され、ほいほい出向いた所を殺されています。可哀想。
他にも田丸城下の宿所にいた大河内具良、坂内具信ら有力一族が討ち取られ、波瀬氏岩内氏らも滅ぼされてしまいます。
ちなみに信長が殺すよう命じたのは具教父子三人と坂内氏だけでしたが、信雄が領地欲しさに大河内具良も殺してしまったらしい(『勢州軍記』)。信長からして絶対殺す奴(具教父子、坂内父子)は決まっていたみたいなので、彼らは武田や義昭への内通に関与していたか、あるいは信雄にあからさまに反発していたのかもしれませんね。
また田丸具忠は他の一族が粛正されたと聞いて「次は自分じゃん…」と考えたのか岩出城に籠城してしまい、慌てて信雄が宥めています。朝起きたら親戚が皆殺しにされてるんだからそら無茶苦茶に恐かったでしょうよ。
一族で生き残ったのは木造氏、田丸氏、藤方氏(河方氏、牧氏、滝川雄利ら木造一族も生存)で、それ以外の北畠氏有力一族はほぼ断絶させられるという大事件となりました。……なったけど、同時代史料ではあまり触れられないので詳しいことがわからない。公家も僧侶も日記になにも書いていないのです。『年代和歌抄』では北畠国永が一年後の天正五年(1577)十一月二十五日に黄門一周忌(黄門は中納言唐名で具教のこと)としていくつか和歌を詠んでいますし、残党として反乱を起こす北畠具親、坂内亀寿らの史料が残っているので天正四年(1576)十一月二十五日に北畠一族の粛清事件があったのは間違いありません。でもなぜか当時の人らは誰もこの件について触れていない。なぜ…?

次々と一族が粛清されていった。


1576 粛正を免れる具房

南勢に粛清の嵐が吹き荒れる中、先代当主の北畠具房は殺されることなく助けられました。
別に具房が無能だから脅威ではなかったとかそんな理由ではなく、信雄の養父だったからという理由です。信雄は具教ではなく具房の養子ですからね。もしかしたら他にも何か理由があったのかもしれませんが、現状史料でわかるのは「形式上は義理の父親だから」です。養父殺しの悪評を恐れたのか、それとも信雄が個人的に助けてあげたかったのかはわかりません。
しかし北畠領にいることは許されず、具房は滝川一益の居城である伊勢長島城へと送られ幽閉されてしまいました。人質としてなのか、残党たちに反乱の旗頭として利用されることを恐れたのか不明です。具房本人の能力どうこう以前に血統とか立場を考えるとチャンスがあれば擁立されかねない危険人物です。田丸城での幽閉だと手引きさえあれば逃がすことも可能でしょうしね。
天正七年(1579)正月に北畠国永が「具房卿囚人と成給、河内(伊勢長島)といふ所へ越ましましすてに三年をへられて…」と記しています(『年代和歌抄』)。
そして天正八年(1580)睦月五日、具房は亡くなります。三十四歳でした。
『勢州軍記』によると死ぬ前には許されて信雅と改名した上で京都にいたとされていますが、これは定かではないことのようです。
具房が死んだことで具教の子供(男)は全員が亡くなり伊勢国司家の直系男子はいなくなりました。とはいえ信雄の正妻である具教娘(千代御前)が子を産めば女系で血が繋がるので「まぁいいか…」と考えている一族や家臣もいたかもしれませんね。具教の兄弟たちも生きてるし。「どっかから血は繋がるやろ」みたいな。想像ですけどね。

信雄と具房ってどのくらい交流があったんでしょう。養子と言っても信雄は船江や大河内にいて一緒に暮らしていたわけではないんですよね…。(絵の元ネタは木村政彦の本のやつ)

 

1576 粛清は既定方針ではなかった?

北畠一族の粛清に関しては藤田達生氏が「必ずしも既定方針だったとは思われない」とし「義昭の指令を受けて周辺諸大名と連携するのを阻止するためであった」と述べています(藤田達生「北畠氏と織豊政権」(『伊勢北畠氏と中世都市・多気吉川弘文館:二〇〇四)。

世の中の動きによって信長も具教も結果的にこの結末に流れ着いてしまっただけで、少なくとも「信長が和睦段階から考えていた陰謀だった」という訳ではありません。

天正四年になってから信長に「あー…これは先に始末しないとヤバいかもしれんわ」と思わせる何かが北畠具教らにあったことで決断が下されただけでしょう。

 

1576 津田一安の粛正

天正四年(1576)十二月、今度は信雄の家老だった津田一安が粛正されました。
傅役の沢井吉長も津田の縁戚ということで織田信忠のところへ転仕しています。
『勢州軍記』では滝川雄利、柘植保重が「津田が北畠一族を匿って面倒を見ている」と讒言したことで信雄が激怒して殺害されたとしています。
他にも津田が北畠家中で権力を持ちすぎた説なんかもありますし、甲斐武田氏と関係が深かったことなんかも挙げられますが津田粛正のはっきりとした原因は不明です(津田は甲斐武田氏に十一年仕えていて織田に出戻りして伊勢は行った後も武田との外交に携わっていました)。
ちなみに『勢州軍記』だと田丸城で日置大膳亮に殺されたことになっていますが、小川新九郎の覚書では新九郎の兄である小川長正が殺したことになっています。まぁ二人でやったのかもしれませんけども。

 

1576 複雑な北畠家

わずか1ヶ月の間に北畠具教や有力一族に加えて、後見してくれていた津田一安、沢井吉長までもを失った北畠信雄具教粛正に反発して離脱した家臣も少なくはありません。
もちろん信雄の権力は強まったでしょうが、領国支配に必要な多くの人材を失ったのもやはりまた事実。現代であろうと戦国時代であろうと、社会というのは様々なノウハウを持った人々によって支えられているのです。彼らが突然粛正でいなくなり、家中を離脱する家臣も現れ、複雑な心境で仕え続けている家臣もいる。譜代家臣と尾張出身家臣との関係もすんなりとはいかなかったでしょう。
これ以降は軋轢を孕んだ複雑な北畠家中を、十九歳の若い養子当主である信雄がほぼ独力でまとめねばならなくなりました。

 

その4へ続く

 

素人が書いてるものなので信じ過ぎないように!

ブログの内容はあくまで参考程度にね!

 

主な参考文献
三重県史』 通史編「中世」
『伊勢北畠氏と中世都市・多気
九鬼嘉隆―戦国最強の水軍大将―』
藤田達生編『伊勢国司北畠氏の研究』
大西源一『北畠氏の研究(復刊)』
池上裕子『織田信長
久野雅司『足利義昭織田信長
柴裕之編『織田氏一門』
谷口克広『織田信長合戦全録』
谷口克広『信長軍の司令官』
谷口克広『信長と消えた家臣たち』
谷口克広『信長と将軍義昭』
服部哲雄・芝田憲一『三重・国盗り物語
和田裕弘織田信長の家臣団』
和田裕弘織田信忠
和田裕弘天正伊賀の乱
勝山清次・飯田良一・上野秀治・西川洋・稲本紀昭・駒田利治編『新版県史 三重県の歴史』
赤坂恒明「天正四年の『堂上次第』について―特に滅亡前夜の北畠一門に関する記載を中心に―」
赤坂恒明「永禄六年の『補略(ぶりゃく)』について:戦国期の所謂公家大名(在国公家領主)に関する記載を中心に」
稲本紀昭「北畠国永『年代和歌抄』を読む」
小川雄「織田権力と北畠信雄
吉井功兒「伊勢北畠氏家督の消長」
柴裕之「織田信雄の改易と出家」

……など。
詳しくは参考文献リストや史料リストをどうぞ

dainagonnokura.hatenablog.jp

 

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